関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大阪探訪125 大坂の陣50 真田丸顕彰碑 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」における真田丸の記述

<<   作成日時 : 2016/02/12 11:34   >>

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写真はこの1月に建立されたばかりの真田丸顕彰碑を2月6日に撮ったものです。明星学園のグラウンドの前に建っています。建てたのは天王寺区役所であり、明星学園が協力しています。
 マスコミなどで紹介されたからか、大河ドラマ「真田丸」効果なのか、何人もの人がその碑を訪ねていました。この碑の前に、真田信繁(幸村)ゆかりの心眼寺であり、お寺を訪ねている人々もいました。私もその一人ですが。
 その碑には、真田信繁の事績が短く記されていますが、真田丸の位置については、次のように書かれています。
 「『真田丸』の場所については、元禄年間(1688年〜1704年)に作製された大坂三郷町絵図に『真田出丸』として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が『真田丸』の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で、徳川方相手に大勝利を得たのである」と。
 拙ブログ記事でもたびたび触れているように、明星学園が「真田丸」の跡地であることを突き止められたのは千田嘉博氏ですが、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)でも、千田氏の見解が取り上げられています。
 すなわち、「近年、千田嘉博氏により、真田丸は大坂城から離れた場所に築城され、出丸という言葉から連想される規模を遥かに超えた大きさを有していたという見解が提示された。たしかに、大阪上町の発掘成果報告書によれば、真田丸と大坂城惣構えの間には低地と水路が確認され、惣構えから離れた場所に築かれたことがわかる。これは、従来知られていた広島市立中央図書館浅野文庫の『真田丸絵図』と一致しており、同絵図の正しさが証明された」などと。
 また「越前家覚書」には、松平忠直が攻めたのは「真田出丸笹曲輪」であったという記述があることから、「複数の曲輪で構成されていたと認識されていたらし」く、「浅野文庫『真田丸絵図』をみると、真田丸の北側(つまり大坂城側)に小さな曲輪が描かれている。曲輪が複数あったことは間違いなさそうだ」と丸山氏の同書に記されています。
 さらに丸山氏の同書では、「真田丸築城は信繁の発案ではなく、諸将の談合によって定められ、結果的に信繁が指名されたという」記述が「北川遺書記」にあること、「真田丸には長宗我部盛親隊が援軍として入っている」との記述が「長沢覚書」にあることも記されています。
 このあたり、大河ドラマ「真田丸」では、真田丸がどのように描かれるのか、今から楽しみにしています。

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