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zoom RSS 石田三成の実像1562 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成4 秀吉生前は五奉行による政権運営

<<   作成日時 : 2016/02/13 10:53   >>

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 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、五大老・五奉行制について、次のような見解が示されています。
 「一般に、秀吉生前から五大老が政権運営に参加したとされることが多いが、これは事実ではない」、「外様が政権運営に関与することはない。したがって秀吉生前は、五奉行を含む豊臣直臣団によって政権運営がなされていた」と。
 むろん、三成は五奉行の一人でしたが、五大老・五奉行制は、「秀吉が没する直前の慶長3年(1598)7月または8月上旬に成立した」と、堀越祐一氏の「五大老・五奉行は、実際に機能していたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』【歴史新書y】所収)の中に記されています。
 堀越氏の同書では、五奉行の職務について、阿部勝則氏の見解が紹介されています。
 すなわち、「@治安維持、A百姓支配、B外交、C豊臣家直轄領の総括、D宗教対策、E主要都市の支配、F大名統制、G家政の八点」だと。
 堀越氏の同書では、その八点について検討が加えられ、私見が述べられています。このうち「治安維持」について、堀越氏は「五奉行は諸大名の領国をも包括した全国的な治安維持権を持っていたわけではなく、政権が直接支配する地域に限定されることは自明である」と指摘されています。その例として、慶長3年8月17日付の五奉行連署状が挙げられています。その書状について、「翌日に迫った秀吉の死去を感じ取ったのであろう、生じえる動乱に備えるためなのか、諸大名の家臣の中には武器を帯び駆け回る者が大勢いたらしく、五奉行はこれを禁じ、大名に取り締まるよう通達している」と解説されています。
 この連署状は、大阪城天守閣蔵のもので、大阪城天守閣発行の図録「特別展 秀吉家臣団」に掲載され、その解説文の中に、次のような記載があります。
 「この数日前から秀吉はすでに他界したとの噂が流れ、伏見城下は騒乱状態となっていた。
 本状は城下の治安回復をはかるために出されたもので、『今後、武家の家中の者たちが武装して城下を駆けまわることはかたく禁止されました』と禁令の発布を伝えたうえで、『これに違反した場合には本人を厳罰に処すのはもちろんのこと、その主人の責任をも追及します』と予告し、あて先の分部光嘉(わけべみつよし)に対して自身の家臣を統制するよう申し入れている」などと。
分部光嘉は当時は伊勢上野一万石の城主でしたが、豊臣家直臣でしたから、治安維持が「政権が直接支配する地域に限定される」という堀越氏の見解にはうなずけるものがあります。
  

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