関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1564 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成5 三成襲撃事件をめぐって

<<   作成日時 : 2016/02/17 10:34   >>

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 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件のことにも触れられています。
 まず小説やドラマでよく描かれているように、三成がこの時、家康の屋敷に逃げ込んだのは事実ではないことが指摘されています。
 「笠谷和比古氏が明らかにされたように、三成が逃れたのは伏見城内の治部少輔丸(治部少輔は三成の官位)であり、ようするに自身の屋敷に逃げ込んだとするのが正しい」と。
 この見解は、笠谷氏と黒田慶一氏の共著「秀吉の野望と誤算」(文英堂)でも示されていますし、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)でも取り上げられています。
 しかし、三成が敵の家康の屋敷に飛び込むというのはドラマティックな展開であり、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」以来踏襲されている感があり、近くは大河ドラマ「天地人」でもそのような描き方がされていました。通説を覆すのはいかに難しいことかを、この件でも痛感しました。
 丸島の同書では、三成がこの事件の責任を取らされて引退に追い込まれたということに関して、この措置の「説明は難しい」と指摘されていますが、その理由として「豊臣政権の政策基調は『私戦禁止』であり、罰せられるべきは襲撃をしかけた『七将』でなくてはならない」という点が挙げられています。
 三成も七将の攻撃に対して反撃しようとしていましたから、処罰される理由がないとはいえませんが、そうであったとしても、「喧嘩両成敗」的な裁定になっていいはずですが、そうはなりませんでした。しかも武断派は攻撃対象にしていたのは、三成だけではなく、奉行衆全体でした。それを三成一人に責任を負わせたのは理不尽な裁定だといえますが、そう裁定したのは家康でした。
 そういう家康の意図について、丸島氏の同書には、「この時の家康は、政権奪取に向けて動き出したと捉えてもよさそうである」と記されています。その根拠として挙げられているのは次のようなことです。
 家康は、「『取次』を味方に引き入れ、最終的に自分の家臣と入れ替えてしまうことで権力を奪取したことが指摘されている。その意味で、石田三成を失脚させた意義は大きい。なぜならば、三成はおそらくもっとも多くの大名の『取次』をつとめていた奉行人だからである」と。
 家康が五大老・五奉行制を骨抜きにしていったのは、その後の動きを見れば明らかですが、取次という観点から、三成失脚を捉えているところは新鮮にうつりましたし、納得もしました。
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