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zoom RSS 大河ドラマ探訪344「真田丸」9 石田三成の実像1567 滝川の人質だった信繁4 昌幸の変わり身

<<   作成日時 : 2016/02/24 11:36   >>

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写真は心眼寺の墓地の北側及び東側の崖を6日に撮ったものです。この崖は「歴史秘話ヒストリアスぺシャル 徹底解明 これが真田丸だ」でも取り上げられていました。浅野家に伝わる絵図にも、真田丸の東側に崖が記されており、このあたりが真田丸の東の端あたりだったと思われます。
 さて、大河ドラマ「真田丸」では、滝川一益の人質となっていた昌幸の母を、信繁が助けに行くものの、失敗し人質になる展開になっていました。信繁が一益の人質になっていたという丸島和洋氏の見解が、「真田丸」で取り入れていないと拙ブログ記事で指摘しましたが、こういう形で取り入れられているのだと知りました。
 もっとも、「真田丸」では、信繁は一益が木曽義昌に渡す時点で解放されるという描き方がされていましたが、丸島氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)で取り上げられていた史料は、信繁がある程度木曽のもとで人質として拘束されていたことがうかがえる内容になっています。丸島氏の見解では、信繁が解放されたのは、「家康が木村義昌に人質解放を命じた天正10年(1582)9月か、祖母河原氏が木曽から家康のもとに人質替えとなった翌11年2月のどちらかと考えられる」と指摘されています。
 大河ドラマでは、昌幸は本能寺の変の直後、勝手に沼田城や岩櫃城を奪い返し、そのことを後で知った一益の怒りを買う場面がありましたが、この点について、丸島氏の同書では、6月「13日には滝川一益の許可を得て沼田請取の軍勢を派遣していた」と記されています。
 大河ドラマでは、昌幸はこの後、上杉景勝に属するものの、それは上杉方の武将に寝返りを促すためだという捉え方がされていました。このあたり、実際の昌幸の思いがどうだったのかはわかりませんが、この点について平山優氏の「真田三代」(PHP新書)には、次のような記載があります。
 「真田昌幸も、北条軍の信濃侵攻を目前にして、上杉氏から北条氏に転じる決意をしたらしい。ところがいっぽうで昌幸は、周辺の豪族への調略を怠っていなかった」と。
 真田が、上杉、北条、徳川という巨大勢力を前にどう対応し、どう立ち向かてゆくかが、これからのドラマの楽しみの一つとなると思われます。ここに秀吉や三成などが絡んでくれば、ますます面白くなってくると思われますが、それはまだ先のことになりそうです。
  拙ブログ記事で、天正13年10月17日付及び11月19日付の昌幸宛ての秀吉書状と、その翌年の天正14年8月3日付の上杉景勝宛ての増田長盛・石田三成連署状を取り上げ、秀吉の昌幸に対する態度が180度変わっていることを見ましたが、そこには複雑な情勢が絡んでいますし、そのあたりもゆくゆくドラマで触れられていくものと思われます。秀吉が昌幸のことを「表裏比興の者」と呼んでいると三成が書いているところからみても、昌幸と三成が相婿であったという従来の説には疑問を持ってしまうのですが、このあたりは後述します。 

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