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zoom RSS 石田三成の実像1568 真田昌幸と三成の相婿説は成り立つのか? 「表裏比興の者」をめぐって

<<   作成日時 : 2016/02/26 15:06   >>

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 三成夫人と真田昌幸夫人とは姉妹であり、共に宇多頼忠の娘だったという説が、従来信じられてきましたが、最近は否定的な見解が多くなっています。それは特に真田氏を研究している人々によって唱えられています。前にも拙ブログ記事で触れたように、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)では、昌幸夫人は京の公家の侍女であるという見解が示されています。
 三成研究家の白川亨氏は、三成と昌幸が相婿であるとの説を展開されていましたが、「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、年齢的な面から、昌幸夫人は宇多頼忠の妹であり、三成夫人の叔母であったという新たな見解を示されています。
 三成の婚姻に関しては、白川氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、天正6年(1578)から7年頃のことであり、羽柴秀長の斡旋によるものだと記されています。
 昌幸夫人が宇多頼忠の娘であれば、三成は結婚した時、昌幸とは相婿の関係であることは当然知っていたはずであり、そうであれば、天正14年の時点で、義理の兄である昌幸のことを「表裏比興の者」という言い方をするでしょうか。むろん、文面ではそう言ったのは秀吉ということになっていますが、秀吉も三成夫人の素性は把握していたはずですから、三成の姻戚関係にある昌幸のことをそういう言い方をするだろうかという疑問を持ちます。
 真田昌幸が婚姻した年については、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、永禄7年(1564)までのことだと推測されています。長女の村松殿が生まれたのが永禄8年のことだからです。信幸が生まれたのは永禄9年であり、信繁が生まれたのは元亀元年(1570)とされていますが、これには異説があります。
 昌幸の婚姻と三成の婚姻には十数年の開きがありますから、白川氏は彼らの妻が共に宇多頼忠の娘だとするのは年齢的なことから無理であるという点で、昌幸夫人は宇多頼忠の妹であるとの見解が示されたわけですが、残念ながら妹だという史料的な裏付けはありません。
白川氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)では、若い昌幸と宇多頼忠の接点はあったという見解が示されています。宇多氏は当時尾藤氏と名乗り、遠州森地方に居住しており、「遠州の国人小領主が武田配下に組み込まれたのは、永禄4〜5年頃からであ」ると指摘されています。また頼忠は、天正3〜4年には「兄の尾藤甚右衛門(後の左衛門尉)を頼って江州長浜に赴き、天正5年(1577)にはすでに羽柴小一郎(後の豊臣秀長)の家臣になっている(『竹生島奉加帳』」)」ことも記されています。
 宇多頼忠と昌幸がこの時点で姻戚関係にあるとするなら、なぜ頼忠が遠州を去り江州に行ったのかという疑問が生じますし、このあたりの疑問の解明が必要だと思われます。
 
 
  

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