関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1569 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」4 慶長5年9月12日付三成書状

<<   作成日時 : 2016/02/29 10:56   >>

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 高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、慶長5年9月12日付の増田長盛宛の三成書状が分析されていますが、その内容が9月12日付の吉川広家書状によって裏付けられていると指摘されています。
 その二通の書状の一致点として次のようなことが挙げられています。
 「東軍の陣地は垂井・赤坂であること」、「毛利軍は南宮山の上にいること」、「戦況は膠着状態であること」、「西軍は統率の取れていない状態であること」、「徳川家康の西上を石田三成は知らないこと」。
 前にも述べたように、私自身はこの三成書状は果たして三成自身が書いたものかどうかという疑問を持っています。内容からいってもこのような西軍の状況を赤裸々に記した書状を書くのかという点がおかしいと思いますし、その書状が途中で奪われたのも、状況的に本当なのかという思いを持ちます。
 この書状は「古今消息集」に収められており、「大津で敵軍の手に奪われ、増田長盛の手に届かなかった」と、今井林太郎氏の「石田三成」(吉川弘文館)に記されています。しかし、当時、西軍は大津城攻めをしていましたから、西軍が押さえている場所で敵に奪われたというのはどうも考えにくいように思います。
 もっとも、高橋氏の同書では、三成書状は奪われたのではなく、増田長盛の手に渡ったものの、家康に差し出したと推定されています。書状には、見せしめのために人質を2、3人処刑するべきだと主張しているものがいるので、そちらで判断してくれというような内容が書かれているために、長盛自身がその指示に従わなかったことを示す意味で差し出しだのだと。これなら、状況的にありうることかもしれません。
 この書状の内容がおかしいということについては、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)でも次のように記されています。
 「正直なところ、これが三成の書いたものそのままとはとても思えない。通常の三成文書と文体・内容ともかけ離れているからである。もしこれが本当に三成の書いたものであるなら、三成は精神的に相当追いつめられて、自分自身を見失っていたのかもしれない。ただ原文をどこまで忠実に伝えているかはともかく、三成が最後に思い描いていたであろう戦術が、そこに記されている」と。
 中井氏の同書では、そういう疑問点を示されながらも、書状の内容から見た三成の戦術が分析されていますし、17ヶ条のうち5ヶ条の釈文と現代語訳が掲載されています。今井氏の同書では、17ヶ条全文の現代語訳が記されています。
 この書状については、本当に三成が書いたのかどうかの真偽も含めて再検討する必要性を感じます。
 

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