関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1558 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」2 秀秋と西軍の戦いに東軍が攻撃?

<<   作成日時 : 2016/02/03 10:53   >>

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  1月31日付拙ブログ記事で触れたように、高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、関ヶ原の戦い当日である9月15日付の徳川家康書状が取り上げられ、「家康は戦場を『関ヶ原』とは言わず『濃州山中』であったと言ってい」ることが記されています。
 戦場が「山中」であることは、17日付の毛利輝元宛吉川広家書状でも記されており、その部分は次のように意訳されています。
 「山中への先鋒は福島正則、黒田長政、そのほかに加藤嘉明、藤堂高虎、そのほか上杉征伐に加わった諸将たちで、小早川秀秋の手引きであるので、小早川と宇喜多・島津・小西・石田らの戦っているところへ仕掛けて合戦となりました」などと。
 高橋氏の同書では、その吉川広家書状を他の史料とも照らし合わせながら分析し、従来の解釈とは全く違う戦いの経緯を示しています。それをまとめると、次のようなものになると記されています。
 「西軍の宇喜多・島津・小西・石田勢は9月14日夜、小早川の籠る松尾山を攻めに向かった。松尾山を包囲し、陣所は山中村周辺、陣立ては第一陣宇喜多、第二陣・島津、その東に石田。9月15日早朝から戦闘開始。しかし午前10時ごろ予期せぬことに、そこへ東軍の『猛勢』が攻め込んできた。そこで石田は先陣に立って戦う。約2時間の戦闘で、まず大谷吉継が戦死。ついで宇喜多勢、石田勢が壊滅。正午ごろ、西軍敗北。島津は伊勢街道を南へ向かって撤退した」と。
 前述したように、白峰旬氏の「関ケ原合戦の真実」(宮帯出版社)でも、当時の一次史料から、小早川秀秋が開戦と同時に裏切ったことや、山中で決戦が行われたこと、一般に知られている関ヶ原の合戦の布陣図に歴史的根拠はないことなどが指摘されています。
 しかし、小早川と西軍が戦っている時に、東軍が攻めてきたという高橋氏の捉え方は、白峰氏の見解とは違っています。
 白峰氏の見解は、三成たちが山中に布陣した時に、東軍諸将が攻め込み、それとほぼ同時に小早川秀秋が裏切ったとするものです。
 その根拠として、9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状写に「戦いをまじえた時(開戦した時)、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋の4人が(家康に)御味方して、裏切りをした」という記述、「16・7世紀イエズス会日本報告集」、「舜旧記」などの記述が挙げられています。
 

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