関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1560高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」3 白峰氏の見解との相違点・脇坂不在?

<<   作成日時 : 2016/02/06 22:05   >>

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高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」では、従来、小早川秀秋の裏切りに続いて西軍を裏切ったとされる脇坂安治が関ヶ原の戦いに参陣していなかったという見解が示されています。その根拠として西洞院時慶の「時慶記」の記述が挙げられています。すなわち、「脇坂安治らは京極高次に同心し、9月3日に大津城から中国衆を追い出して、籠城戦をしていました」と。
 また高橋氏の同書では、「西軍について西軍側として参陣しているいくつかの部隊が合戦の途中、あるいは合戦がはじまると同時に寝返って東軍側となって戦うというのは、実際には不可能です。東西両軍、上下の兵すべてがその事態を認識することが出来ないからです」と。
 さらに高橋氏の同書では、一次史料によると、脇坂と同時に裏切ったとされる「朽木・赤座・小川らの所在は不明です」と記されています。
 この点について、拙ブログ記事で触れたように、白峰旬氏の「関ケ原合戦の真実」(宮帯出版社)では、9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状写に「戦いをまじえた時(開戦した時)、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋の4人が(家康に)御味方して、裏切りをした」という記述があることが指摘されています。
 「時慶記」の記述は、伝聞によるものでしょうから、脇坂安治が関ヶ原の合戦の時にいなかったという、もう少し確実な史料が求められます。
 昨年行われた「大関ヶ原展」に、8月1日付の脇坂安治の息子の安元に宛てた徳川家康書状が展示されていました。その図録に、次のようなことが記されています。
 「本状によると、脇坂安治は上杉攻めに向かう徳川方の軍勢に息子の安元を参陣させようとしたが、石田三成に阻まれてかなわず、やむなく引き返して石田方の武将と行動をともにしたことを、徳川家康が山岡道阿弥(景友)を通じて聞いた旨が記されている。家康は脇坂父子に対して備えを固くするよう指示している。(中略)
 合戦後、小川・赤座らが改易されたのに対し、脇坂家は本状によって所領を安堵される。本状は脇坂家が当初から家康とよしみを通じていたことを示す重大な書状であり、御家存続をなし得た家宝として、今も脇坂家で大切に保管されている」などと。
 「大関ヶ原展」では、従来の通説通り、小早川に続いて、脇坂・朽木・赤座・小川らが裏切ったという捉え方がされています。
 同展には、脇坂安治像、安治が着用した胴丸、安治が使用した十文字槍(賤ヶ岳の戦いで使用したとされるもの)、安治の所用と伝わる兜、安元が着用したと伝わる具足が展示されていました。
 

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