関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 大阪探訪123 大坂の陣49 新たに発掘された大坂城 詰ノ丸の南東石垣・隅櫓跡・夏の陣の焼け土層

<<   作成日時 : 2016/02/08 15:58   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
 写真は新たに発掘された豊臣期大坂城詰の丸の地表面や石垣などを2月6日に撮ったものです。写真の中央より少し下のところに「豊臣期地表面」の表示板がありますが、写真に向かってその左側のところが肉眼ではあちらこちらオレンジ色になっているのが分かりました(写真ではわかりにくいですが)。それが大坂夏の陣の時に焼けた跡です。
 今回の現地公開は、土日の二日間にわたって、しかも10時から午後4時まで行われたので、それほど混んではいませんでした。ある程度人が集まった時点で、学芸員さんが10分程、説明を行っておられました。
 現地の受付でいただいた資料に、「豊臣期大坂城詰ノ丸を発掘」という見出しで次のように説明されています。
 「今回の調査区では、大手前配水池南辺の法面(のりめん)下を発掘し、1984(昭和59)年に発掘された豊臣期大坂城の詰ノ丸東南隅の石垣上部を再発掘するとともに、さらに北側を掘り進めて隅櫓(すみやぐら)があったと推定される範囲の地表面や北に続く東面石垣の延長部を確認しました。隅櫓の場所の南北幅は約7.2mで、地表面は大坂ノ陣の際に焼けた瓦や土が穴に捨てられたり整地されており、ここに櫓などの建物があったことを裏付けています」と。
 現在の大阪城天守閣は、徳川期大坂城天守の位置に建っており、豊臣期大坂城の天守はそれよりもっと東側に建っていました。詰ノ丸は本丸の北部にあり、さらにその北側に山里丸がありました。今回発掘されたのは、詰ノ丸の南東の石垣の部分ですが、大工頭であった中井家に伝わる「豊臣時代本丸図」には、その部分に「櫓」と記されています。、
今回の発見を知ったのは、最初はネット上の新聞記事でしたが、その後、3日付の朝日新聞記事に、「大坂夏の陣の焼け土 豊臣時代の石垣内部に」と題する記事が掲載され、その中に次のように記されています。
 「今回、1984年に見つかった豊臣時代の石垣(高さ約6メートル)の公開施設(2019年完成予定)の整備に向けた調査で、84年に出土した石垣の最上部や、それを支えるこぶし大の裏込め石を再発掘。石垣の内側から、赤く焼けた土や壊れた瓦などが見つかった。大坂夏の陣で石垣の上に立っていた櫓が焼失した後、徳川方ががれきを埋めて整地したとみられる」と。
 学芸員さんの説明も具体的で、わかりやすいものでした。上の写真の下の方に裏込め石、瓦、石垣などがうつっています。大河ドラマ「真田丸」放送の年に、こういう発見があったのも因縁めいたものを感じました。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大阪探訪123 大坂の陣49 新たに発掘された大坂城 詰ノ丸の南東石垣・隅櫓跡・夏の陣の焼け土層 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる