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zoom RSS 大河ドラマ探訪348 「真田丸」13 石田三成の実像1576 上田城築城をめぐって・三成と上杉の接触

<<   作成日時 : 2016/03/15 11:14   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、上田城築城について、真田が徳川に作らせたものの、それは徳川に対する備えの城だという捉え方がされていました。
 上田城築城について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には次のように記されています。
 「勘違いされがちだが、上田城はあくまで徳川氏直属の城郭として築かれたものであった。真田家のような国衆は、敵国の脅威にさらされた際、領国内に従属先の戦国大名の軍勢の駐屯を仰ぎ、保護を求めることがある。この場合、上杉家の脅威に対処するため、真田領内に徳川方の城郭を築いてもらったのである」
 また平山優氏の「真田三代」(PHP新書)には、「上田城築城は昌幸単独でなされたものでなく、徳川軍によって実施され後に昌幸に下賜されたものであることが近年明らかにされた。昌幸は、徳川氏の力を借りて、まんまと戸石城、松尾城と並ぶ城郭を手に入れることに成功したのである」と記されています。
 ドラマでは、こういう近年の研究成果を取り入れて、真田が徳川氏に作らせたという形にしたのでしょうが、その目的が当の徳川に備えるためだったというのは、後に上田城で徳川軍を二度にわたって撃退しているところから、そういううがった捉え方をしているものと思われます。
 「真田丸」では、虚空蔵山城の嘘の戦いによる上杉氏の勝利が、北条氏に脅威を与え沼田から撤退させ、信繁の策が功を奏するという展開になっていましたが、実際の北条氏はこの後も動きを止めず「9月には北条氏直自身が上野に出陣し、毛利北条芳林を降伏させた。これにより、上野における反北条方勢力は事実上、真田氏のみとなった」と丸島氏の同書に記されています。こういう北条氏の動きは、「真田丸」でも描かれるのでしょうか。
 徳川氏が上田城築城を開始したのは天正11年(1583)4月のことです。
 この頃、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破っています。三成が上杉家と最初に接触を持ったのは、賤ヶ岳の戦い直前の2月7日付の覚書だということが、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)に記されています。
 この覚書は秀吉書状の添状であり、増田長盛・木村清久との連署状です。宛名は西雲寺の僧ですが、上杉氏に宛てたものであることも、太田氏の同書に記されています。太田氏の見解によれば、兼続も当然この書状に目を通し、三成(当時は佐吉)のことを知ったとあります。この書状で注目すべきは、上杉に対して、柴田勝家を攪乱するために、越中に攻め入ることを求めていることですが、実際、上杉はその求めに応じませんでした。しかし、それも当然のことで、上杉氏も領内に問題を抱え、徳川、北条と争っていましたから、秀吉の応援をする余裕はありませんでした。
  

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