関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1579 聚楽第に複雑な外堀があったという新たな発見・秀次時代のもの

<<   作成日時 : 2016/03/22 10:27   >>

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 3月11日付の朝日新聞に「聚楽第に複雑な外堀か」と題する記事が掲載されました。京大防災研究所などのグループが、「地面をたたいて発生させた地震波を検知する『表面波探査』を国内の考古学調査で初めて本格実施」しました。「その結果、本丸などの外側の東、西、北の三方に五つの外堀があるとみられることが判明。深さ8メートル以上、幅30〜40メートルで、何カ所も折れ曲がる複雑な形をしていた。城の範囲は東西約760メートル、南北約800メートルと従来の約1・6倍に広がるという」ことが分かりました。
 「秀吉が関白の頃の様子を描いたとみられる『諸国古城之図』【広島市立中央図書館所蔵】に外堀は描かれていないことから、外堀は秀次時代のものとみられる」という見解も示されています。
 このことについて、千田嘉博氏は「発掘による検証が必要だが、秀次は聚楽第を本格的な軍事拠点、最強の城へ急速に造り替えようとしたのでは。秀吉と秀次の権力構造を考える上で画期的な成果だ」と指摘されています。一方、馬瀬智光氏は「秀吉の京都改造の一環で、秀吉の指示のもとで秀次が洛中の守りを固めたのでは」と指摘されています。
 外堀建造が、秀吉の指示のもとで行われたか、秀次独自の考えによるものであったのかは、今後の検討課題と思われます。
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、秀吉と秀次の関係について、次のように記されています。
 「関白になったからといって、秀次は権力を手にしたわけではない。実権は、あくまで太閤秀吉に残されたのである」
 前にも取り上げたように、丸島氏の同書では、三成が秀次を切腹に追い込んだことに否定的な見解が取られています。矢部健太郎氏の見解がその根拠に挙げられています。秀吉の家臣であった若江八人衆が、三成の家臣になっており、三成が秀次切腹事件に関与していたとするなら、彼らが三成に忠義を尽くすとは考えられないことを矢部氏は指摘していますが、この点については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記しました。これも前述したように、秀次の切腹は秀吉が命じたものではなく、秀次が高野山で蟄居するようにという秀吉の命令を無視して、切腹したというのが矢部氏の見解であり、そこには使者に来た福島正則が関与しているということも指摘されています。丸島氏の同書には、福島の関与については言及されていませんが、そこまで言えるのかという判断が働いているのかもしれません。
 秀次切腹事件についても今後の研究が待たれます。

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