関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1580 聚楽第に複雑な外堀があったという新たな発見2 「聚楽第復元図」

<<   作成日時 : 2016/03/24 11:42   >>

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  写真は京都市考古資料館に展示されている「表面波探査による聚楽第復元図」を昨日撮ったものです。昨日は地下鉄北山駅近くの古田織部美術館(内容については後述します)を見て、近くのレストラン「ブリアン」で、「聚楽第跡の表面波探査」魚がメインのランチセットを食べた後、地下鉄で今出川駅に出て、西に向かって考古資料館まで歩きました(徒歩で15分程)。考古資料館では、常設展の他に、「聚楽第跡の表面波探査」速報展も開かれており、「聚楽第復元図」もその一つとして展示されていました。この図は、新聞にも掲載されていました。
 その図には真ん中に本丸があり、その周りを濠が取り囲んでいます。本丸の北には北之丸、西南には西之丸、南には南二之丸があり、やはりそれぞれ濠に囲まれています。この構図は、新創社編「京都時代MAP 安土桃山編」(光村推古書院に載っている聚楽第の図と同じです。「表面波探査による聚楽第復元図」には、北之丸の外側に北外濠が取り囲んでおり、東外濠につながっています。東外濠はその東南にもう一カ所あります。一方、本丸・西之丸の西側には二カ所西外濠が記されています。
 「京都時代MAP」には、むろん、最近発見された北、西、東の外濠は掲載されていません。その「京都時代MAP」には、南の外濠が記載されていますが、「表面波探査による聚楽第復元図」では、南の外濠は薄緑色になっています。薄緑色の部分は、「以前から聚楽第の濠跡と考えられていた」ものの、今回の調査で「堀ではない可能性」があるところです。
 この点について、「表面波探査による聚楽第復元図」と題する資料には、次のように記されています。
 「この一帯は現在の地形が周辺より凹んでおり、江戸時代後期から聚楽第外濠と考えられてきたが、探査では濠は確認されなかった。周辺の発掘調査でも浅い地点で地山が出ていることから、この地点は濠ではない可能性がある」と。
 南の外濠がないという点について、同資料では、「外濠が未完成のまま聚楽第は破却された」のではないかと記されています。
 外濠は「聚楽第が造られた当初の段階には存在せず、その後に掘削され」たこと、秀次が北之丸や外濠を作ったのではないかという推定も記されています。
 聚楽第と伏見城との構造上の違いの一つとして、伏見城には三成たち奉行の郭があったのに対して、聚楽第にはそれがさなかったということが挙げられます。伏見城では、三成には治部少輔丸が与えられており、その名残が治部池となって残っています。 

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