関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1586 聚楽第に複雑な外堀があったという新たな発見3 天守と土橋の位置も確認  

<<   作成日時 : 2016/03/30 21:37   >>

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 写真は京都市考古資料館の「聚楽第跡の表面波探査」速報展で展示されていた、「聚楽第図屏風」(三井記念美術館所蔵)と「諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)を3月23日に撮ったものです。
 これらの図には、本丸北西部に天守が描かれていますが、それが今回の表面波探査によって確かめられたことが、「聚楽第跡の表面波探査」の資料に記されています。
 すなわち、本丸西濠に当たる裏門通一条から南への「25〜75m地点でマウンド状の高まりを検出」し、「この高まりは削られた天守台(天守を立てた台)が残存している、と考えられる」と。
 また「諸国古城之図」には、土橋が描かれていますが、これも今回の表面波調査で確かめられたことも同資料に記されています。
 すなわち、本丸北濠に当たる一条通大宮から西への「42〜62m地点の本丸北東部で濠が途切れることが判明。地盤を削りのこして土橋を造ったものと考えられる」と。
 外濠の存在に加えて、天守と土橋の位置が図と変わりないことが今回確認されたわけです。今回の調査では「ボーリング調査を黒門通中立売付近の東外濠推定地点で実施」し、「ボーリング調査でも濠と考えられる堆積状況を確認しました」と記されています。
 聚楽第には、三成たち奉行衆の屋敷はありませんでしたが、「諸国古城之図」には、聚楽第本丸の周りの大名屋敷に浅野長政の名(東南の位置)があります。前述したように、この絵図には外堀は描かれていませんが、塀で囲まれており、浅野長政屋敷は聚楽第の内側にあることになります。聚楽第ができた時点では、浅野長政の地位は他の奉行と比べて高かったことを物語っているのかもしれません。
 三成は大坂城の城内では屋敷を持っていませんでしたが、大坂城の北東に当たる備前島に屋敷を持っていました。
 伏見城では、三成たち五奉行は城内にそれぞれ屋敷を持っていましたが、そういうものを与えられているということは、彼らが豊臣政権で中心的な役割を果たしていたことを示しているものと思われます。伏見城は最初指月に作られましたが、城の規模から考えて、城内に奉行衆の屋敷があったとは考えにくいのではないでしょうか。木幡山に伏見城が築かれたのは、慶長元年(1596)閏7月13日に起こった大地震で指月伏見城が壊れた後でしたが、秀次が切腹したのはその前年の文禄4年(1595)7月のことであり、聚楽第はその後に破却されました。

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