関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1571 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」5 大谷吉継は伊勢方面から転進?

<<   作成日時 : 2016/03/04 18:55   >>

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 敦賀市立博物館発行の図録「大谷吉継 人とことば」の「大谷吉継関連年表」の「大谷吉継の動向」の「慶長5年(1600)」の項には、次のようなことが記されています。
 「7月、上杉征討軍に加わるため美濃垂井に進軍。石田三成と佐和山に会し、家康打倒の挙兵に合意。
      前田利長軍の南下を知り、越前に移動(8月、利長軍を撤退させる)。
  8月、大聖寺まで進軍し、ついで兵をまとめ美濃へ向かう。
  9月、関ヶ原合戦(戦死)」と。
 吉継が関ヶ原の戦いの前に北陸方面に進出し、利長軍を撤退させる功績を果たしたというのは、一般的によく知られたことですが、高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中でそのことが否定されています。
 すなわち、「大谷は北陸方面からではなく、伊勢方面から大垣に移動した」と。その根拠として挙げられているのは、9月12日付の増田長盛宛石田三成書状です。
 その書状の部分について、今井林太郎氏の「石田三成」(吉川弘文館)には、次のように現代語訳されています。
 「長束正家・安国寺恵瓊は、この度伊勢方面より出動した中国衆は勿論のこと、大谷吉継及び秀頼麾下の御弓鉄砲衆までも南宮山に引き寄せようとしているので、人数が少々無駄になるようだ」
 この文面からは、大谷吉継も伊勢方面から出動したという意味ではないようにも取れます。もっとも、「秀頼麾下の御弓鉄砲衆」は、中国衆と同じく南宮山に布陣したことが、9月17日付の吉川広家書状からわかりますから、吉継も彼らや中国衆とそれまで同一行動を取っていたと考えられなくもありません。しかし、吉継は実際、南宮山には行っていませんし、この三成書状自体、三成自身が書いたものではないのではないかという疑問を私は持っていますから、吉継が伊勢方面から移動してきたという新しい解釈には、にわかにうなずけませんし、他の裏付けがほしいところです。
 高橋氏の同書では取り上げられていませんが、8月5日付の真田昌幸・信幸・信繁宛の石田三成書状の別紙に記された「備えの人数書き」に「北国口(北国方面軍)」として大谷吉継の名があります。これをもって、吉継が北国に行ったという直接的な証拠にはなりませんが、行ったと考えるのが自然ではないでしょうか。
 もっとも、高橋氏の同書では、吉継が北国に行って活躍したという記述は、「小松軍記」などの軍記物にあるだけで、一次史料には書かれていないと指摘されており、吉継の動向については改めて検討する必要があるかもしれません。
  
 

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