関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 京都探訪279 石田三成の実像1572  芳春院の特別公開1 前田家の菩提寺・家康暗殺事件をめぐって

<<   作成日時 : 2016/03/06 12:47   >>

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  写真は大徳寺の芳春院の山門を一昨日撮ったものです。「京の冬の旅」特集で特別公開されており、妻と見に行って来ました。
 まず地下鉄で烏丸御池駅に出て、新風館のカフェレストランでランチを食べ、再び地下鉄に乗り北大路駅へ出て、そこから西へ大徳寺まで15分余り歩きました。大徳寺へ行くには、いつもこのコースです。
 本堂や庭園は撮影禁止だったので、山門の写真を撮りました。
 芳春院は慶長13年(1608)、前田利家の正室であったまつが、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開祖として創建した前田家の京都での菩提寺です。まつは利家の死後に起こった、利長による家康暗殺事件の際に、家康から江戸に人質に来るよう要求され、それに従いましたが、人質生活は慶長5年から慶長19年(利長の死まで)の長きに及びました。
 しかし、ずっと江戸に囚われていたわけではなく、金沢に戻ることはできなかったものの、京へも来ることが出来、その折にこの芳春院を創建したという、本堂でのガイドさんの説明がありました。
 本堂には、中央に本尊の釈迦如来像、向かって右側に玉室宗珀の木像、左側にまつ(芳春院)の木像が安置されていました。また西陣織で作られた利家とまつの肖像画も掲げられていました。
 ガイドさんは、家康暗殺事件に関して、前田利長が暗殺を企てたという噂を家康が流し、前田家をやりこめようとしたというふうに説明していましたが、確かに暗殺事件は家康がでっち上げたという捉え方がよくされていますし、小説でもそういうふうに描かれることが少なくありません。私も以前はそう思っていましたが、最近は利長側にもそういう動きがあったのではないかという思いも持っています。
 それは、 カンハンの「看羊録」に、そういう記述があるからであり、三成や吉継が家康の意向を受けて、出兵しているという記述が「看羊録」にありますが、それを裏付ける日本側の史料があるという事実を知ってからです。日本側の史料にも記載されていることについては、拙ブログ記事でも以前記したように、、故市野澤永氏のご尽力がありました。
 「看羊録」には、三成が家康に利長のことを知らせたこと、三成は家康に媚びていることも記されていますが、カンハンはあくまで囚われの身であり、伝聞で書いているところがありますから、どこまで信を置けるかわかりません。三成がこの時、家康側に就いていたのは事実です(それが擬態であったかどうかは見解の分かれるところですが)し、家康暗殺事件のきっかけ、経緯についても再検討する必要があると思っています。
 
適当な転地昼食む信分間
 

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