関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 京都探訪280 石田三成の実像1573 芳春院の特別公開2 「呑湖閣」に春屋宗圓像・近衛文麿も下宿

<<   作成日時 : 2016/03/08 10:57   >>

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 写真は大徳寺の芳春院の山門の横に建っていた特別公開の案内看板を撮ったものです。看板の上部には「呑湖閣(どんこかく)」の写真が掲載されています。「呑湖閣」も撮影禁止だったので、この看板で代用しました。
 趣きのある建物であり、「飽雲池(ほううんち)」と呼ばれる池のそばに建っており、「呑湖閣」とは「打月橋(だげつきょう)」という橋でつながっています。それら全体が独特の雰囲気を作り上げていますが、池は本来もっと広かったものの、書院が建てられたために、池の一部が削られてしまったというガイドさんの説明がありました。それが残念な気がしました。「呑湖閣」も「打月橋」も、そばからの景観を楽しむだけで中に入れませんでした。
 「呑湖閣」の上層部には菅原道真が祀られていますが、前田家は道真を先祖としており、家紋も菅原家の梅鉢の紋をもとにしたものだということも説明されていました。下層部には、玉室宗珀の師である春屋宗園の像や近衛家の位牌などが安置されているとの説明もありました。
 後に総理大臣になった近衛文麿が京都帝国大学の学生だった時に、この書院に住んでいたことも述べられていました。
 近衛は最初東京帝国大学文科大学哲学科に入学しましたが、まもなく京都帝大法科大学に替わりました。その間の事情について、岡義武氏の「近衛文麿」(岩波新書)には次のように記されています。
 「一高の三年生の頃から社会科学に興味を抱くようになり、京都帝大の米田庄太郎氏や河上肇氏の書物に親しむようになった。そこで、一旦東京帝大の哲学科に入り井上哲次郎氏あたりの講義をきいていたものの、面白くない。それで米田氏や河上氏のいる京都帝大に行くことにした」と。
 また「入学の翌年にあたる大正2年、毛利高範子爵の次女千代子と結婚した。毛利家は豊後の旧佐伯藩主の家柄である。恋愛結婚であった。すでにこの頃から女色を好んだ彼は、結婚後まもなく祇園の芸妓を落籍した」ということも記されています。
 春屋宗園は、石田三成の参禅の師であり、三成は浅野幸長・森忠政とともに宗園のために三玄院を建立しました。また三成が佐和山に母の菩提を弔うために瑞岳寺を建てた時に宗園を開基として招きました。また三成が関ヶ原の戦いで敗れて処刑された時、その遺骸を引き取って三玄院に厚く葬りました。今回も芳春院へ行く際、三玄院の前を通りましたが、三成ファンでしょうか、門前で中を覗き込んで写真を撮っている人がいました。三玄院は拝観禁止であり、特別公開されることもありませんが、早く公開されて、三成の墓にお参りできるようになってほしいものです。
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