関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1588「三成フェス」6 小和田哲男氏の基調講演4 直訴を認める掟書・武功派との軋轢

<<   作成日時 : 2016/04/01 16:49   >>

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 26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、「三成の人となり」として4点目に挙げられていた「領主として誠実な百姓との接し方」ですが、三成が領内に出した村掟の条文が取り上げられていました。その条文は三成への直訴が認められた画期的な部分であり、講演会の資料では原文で記されていましたが、今井林太郎氏の「石田三成」(吉川弘文館)の口語訳でそれを記すと次のようになります。
 「何事によらず、百姓が迷惑することがあれば、用捨なく目安をもって訴え出るべし。ただし節目のないことを訴え出たときは、その身を罪科に処する。従ってよく調べたうえで訴え出るようにすべきである」と。
 百姓の身に立った掟書であり、九ヶ条と十三ヶ条のものがあると説明されていました。この掟書については、今井林太郎氏の同書で、次のように評価されています。
 「当時諸大名のうちで、自己の領内にこれほど綿密な規定を出しているものは、三成のほかに殆ど見当たらないのであって、彼の封建領主としてのすぐれた手腕を知ることができる」と。
 講演会では次に「関ヶ原の戦いと三成」という項目を設けて話されていましたが、まず「武功派との軋轢はなぜ生まれたか」という点が挙げられ、朝鮮の役が直接の原因だったと説明されていましたが、こういう見解は一般に認められていることだと思われます。
 秀吉は三成ら吏僚派と武功派のバランスを巧みに取っていたこと、その例として秀次事件後、三成が佐和山19万4千石が与えられたのに対して、福島正則は清州20万石を与えたことが挙げられていました。秀吉の死後、そのバランスが崩れ、それが関ヶ原の戦いにつながりました。
 講演会では朝鮮の役で三成は監視役として渡海し、武功派の行動を秀吉に報告し、それが武功派の恨みを買ったと説明されていましたが、時間の関係で、踏み込んだ説明がされなかったのが残念でした。
 まず三成は文禄の役では渡海していますが、慶長の役では渡海していません。小和田氏の「石田三成」(PHP新書)では、文禄の役の際、三成は和平交渉を妨害する武功派の加藤清正を呼び戻すため、秀吉にそのことを報告し、清正は日本に召喚されたことによって三成に恨みを抱くようになったと記されています。しかし、清正が日本に召喚されたのは、三成の報告によって罪に問われたためではなく、清正を日本で行われる講和交渉に参加させるためであったという見解が、中野等氏によって示されています。
 軋轢は文禄の役かあったのかもしれませんが、それが決定的になったのは慶長の役においてであり、その時三成は渡海していませんでした。

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