関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1601 大河ドラマ探訪353「真田丸」18 三成の描き方4 経済面に明るかった清正

<<   作成日時 : 2016/04/14 11:16   >>

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 「真田丸」では、三成の屋敷に清正がよく訪れているという設定になっていました。しかし、これはありえた話かもしれません。清正も三成も秀吉子飼いの武将であり、若い頃から交流があったのではないかと思われるからです。清正・福島正則=北政所派=家康、三成ら吏僚派=淀殿派という図式が当然のことのように長らく信じられてきたために、清正・正則と三成は若い時から仲が悪かったというふうに捉え方がされていますが、確執や誤解が生じたのは、かなり後年のことになってからのことではないと私は見ています。二人の関係が、今後、どういうふうに変化してゆくのか興味が持たれます。
 ドラマとしてのおかしな点は、清正のイメージとして武功中心の武将だと捉えられていることであり、そうではなかったということが、熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」に記されています。同書には、宛名として「加藤主計頭」と書かれた天正14年1月6日付の羽柴秀吉知行宛行状が取り上げられて、次のように解説されています。
 「主計頭とは、財務担当者を意味する。この宛行状が書かれたのは、織田信長の跡を継いだ秀吉が大坂に城を構えて九州攻めを視野に入れ、自らの政権を確立しようとしているころ。清正は秀吉の政治グループで財務をつかさどる位置を占め、政権内の足場を築いていたと言える」
 「主計頭任官の背景には、秀吉から蔵入地の代官を命じられたことが大きい。この年から清正は播磨国にある蔵入地の管理を任されている」
 「秀吉が清正の官僚的素質を見抜き、優秀な部下であると高く評価していたことはよく知られる。主計頭は年貢を安定的に集めることなど財務全般を担当し、この宛行状は、清正が行政能力に長け、特に経済面に明るかったことを裏付ける」などと。
 清正も三成と同様、「行政能力に長け、経済面に明るかった」わけで、清正=武断派という枠では捉えきれない面を持っていることが分かります。
 「真田丸」で、三成は清正に対して「国を治めるには官位はなくてはならないものだ」という言葉を出していましたが、三成の頭の中には、すでにこの時点で将来を見据え、泰平な世を築くための諸政策を考えていたものと思われます。 検地、刀狩り、惣無事令をはじめとした法令などを中心となって実施したのは三成です。 そのあたりのことを今後「真田丸」でどのように描かれるのか楽しみです。
 ちなみに景勝らが初上洛したのは天正14年ですが、三成はすでにその2年前に近江国蒲生郡今在家村で検地を実施しています。
 

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