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zoom RSS 大河ドラマ探訪354「真田丸」19 天正大地震で窮地を脱した家康・実際に地震が起こったのは深夜

<<   作成日時 : 2016/04/17 15:07   >>

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 熊本地震で被災された方々に対して心からお見舞い申し上げます。何より余震が早く収まり、人々が今までの生活を少しでも早く取り戻すことができて、復興が着実に進むことを願っています。
 日本は地震列島であり、関西に住んでいる当方は、南海トラフの大地震がいつ起こるか戦々恐々としていますが、今回のことで、どこで地震が起こっても不思議はないと痛感しました。熊本の象徴的な存在である熊本城の悲惨な状況にも心が痛みます。
 昨年、オンライン三成会の有志の人々と名護屋城跡へ行きましたが、その後熊本城まで足を伸ばした人もいました。私は博多にある三成ゆかりの地へ行ったため、熊本へは行きませんでしたが、近いうちに訪ねたいと思っていました。小西行長の所領であった宇土にも足を運びたいと思っていました。宇土市の市役所も損傷を受けており、崩壊の危険もあるということですが、被害の範囲の広さ、甚大さがうかがえます。
 さて、先週に放送された「真田丸」で、天正大地震のことが描かれていました。秀吉は家康を討とうとしており、家康がおびえていた時に、大地震が起こったために、秀吉はこれより復興に力を入れ、家康との戦いは立ち消えになり、家康は最大の窮地を脱したというふうに。
 この点について、平山優氏の「真田三代」(PHP新書)には、次のように記されています。
 「(家康が)織田信雄の使者と対面した翌11月29日亥刻(午後10頃)、内陸部を震源とする推定マグニチュード7・2〜8・1の大震災が、関西、中部地方を中心とする地域を襲った。天正大地震である。さらに大規模な余震が30日丑刻(午前2時ごろ)にも発生し、それは12月23日まで続いたという。この地震は各地で大きな被害をもたらしたが、とりわけ秀吉に深刻な打撃を与え、家康との即時開戦に踏み切ることが困難になった。また天正13年は大飢饉に見舞われた年でもあった。秀吉は、家康打倒を目指す強硬策から一転して、上洛を促す融和策へと外交路線の変更を余儀なくされた」と。
 天正大地震が起こったのは深夜でしたが、「真田丸」では昼間のこととして描かれ、その時、家康が庭に逃げ出す場面がありました。この点について、朝日新聞の土曜版に連載されていた「磯田道史の備える歴史学」の中で、家康は「終日、戦争準備に明け暮れ、眠りについたところで揺れを感じた」と記されています。
 磯田氏の同書には、秀吉の家康討伐の前線基地である大垣城や、先鋒が期待されていた山内一豊の長浜城が倒壊し、秀吉は坂本城にいたものの、急いで大坂に避難したことなどが記されています。家康はこの地震で窮地を脱しただけではなく、小牧・長久手の戦いで勝利を収めたために、後世、秀吉に負けなかった武将ということが喧伝されました。 

 

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