3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、前述したように「関ヶ原の戦いと三成」という項目で「武功派との軋轢はなぜ生まれたか」という点について言及され、朝鮮の役が直接の原因だったと説明されていました。 この点について、慶長の役での軋轢が決定的なものであったという笠谷和比古の見解があり、私はそれが妥当な見方だと思っています。現地の武将たちが蔚山城の戦いの際、追撃しなかったことや戦線縮小を唱えたことを、三成派とされる福原長嵩ら奉行たちが秀吉に報告し、そのために武将たちが処分されたので、秀吉の死後、武将たちの不満が渡海奉行たちに向けられますが、その矛先は慶長の役には渡海していなかった三成にも向かい、石田三成襲撃事件を起こしました(襲撃の対象は三成だけでなく、他の奉行衆たちも対象になっていましたが)。 これも前にも述べたことですが、三成の胸中は複雑なものがあったのではないでしょうか。文禄の役の際には、三成は渡海し、この侵略戦争の無謀さをつぶさに見ていますし、戦争を継続することの困難さを書状にして書き送っています。また開城から漢城まで撤退して、敵を向かい討つ作戦も主張していますから、慶長の役で武将たちが戦線縮小を唱えたことに理解を示していたというのが本当のところではなかったでしょうか。処分を下したのは秀吉であり、処分された武将たちは秀吉の死後、恨みを持っていた福原たち渡海奉行衆を訴えます。三成は豊臣政権の奉行の立場として、偽った報告をしたわけではない渡海奉行たちを守らざるをえなかったのではないでしょうか。 単に武功派と吏僚派の対立という構図では捉えられないものを含んでいますし、両者の軋轢については、今後、詳しい検討が必要だと思われます。 講演会では次に「三成の豊臣家世襲路線と家康の『天下はまわりもち』」という点について言及されていました。「天下はまわりもち」という見方については、秀吉も本能寺の変後、織田家から天下を奪った形でしたから、家康がそう考えたのは無理ないことだと説明されていました。三成も家康のそういう考えがわかっていたからこそ、豊臣政権維持のためには家康が最大のネックだと危機感を強め、実際、家康は五大老・五奉行を一人ずつ屈服させていきましたから、家康が上杉攻めをするに及んで、三成は今を逃しては、このまま家康に政権を取られてしまうと思ったのでしょう。 さらに「『負けるとわかって突っ込んだ』はまちがい」だという点について言及され、三成には勝算があったと指摘されていました。実際、三成は大量の兵力を集め、関ヶ原の戦いの時には、西軍8万4万に対して東軍は7万4千と軍勢が多かったと説明されていました。もっとも、実際に西軍で戦ったのは約3万5千人でしたが。 |
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