関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1605 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」1 秀吉に常には近侍していず・讒言説の最初

<<   作成日時 : 2016/04/22 17:17   >>

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  矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)は、秀次の切腹が秀吉の命令に反して、無実であることを証明するために行ったという見解を論じたものです。この見解については、矢部氏の「関ケ原合戦と石田三成」や矢部氏の講演会で述べられており、拙ブログでも取り上げましたが、より詳しく論じられており、いろいろと新らしい知見が得られました。
 まず三成について、次のように記されています。
 「『奉行衆』『吏僚派』といわれる彼は、頭は切れるがどことなく陰湿で、日頃から秀吉に誰彼の悪口を吹き込むようなキャラクターで描かれることが多い。しかし、史料から実際の行動をみていけばわかるように、彼はそれほどべったりと秀吉に近侍していたわけではなく、日本全国、果ては朝鮮半島までを行動範囲とし、秀吉から離れての活動も精力的に展開していた。もちろん、それは秀吉の許可の範疇ではあったが、三成の行動は政権全体の要請に基づくものであって、一個人をおとしめようとか、私腹を肥やそうとか、そのような小さな事に汲々としていたかは疑問である」と。
大河ドラマの「江」でも「軍師官兵衛」でも、三成の讒言によって、千利休切腹事件や豊臣秀次切腹事件が引き起こされたように描かれていましたから、三成は常に秀吉のそばにいるという設定でした。しかし、実際は矢部氏の同書で指摘されているように、「秀吉から離れての活動も精力的に展開していた」のであって、特に千利休切腹事件の時には、三成は都から離れており、画策はできない状況でした。少なくとも三成が関東から上方に戻ってきたのは、2月中旬あたりであり(関東の後、九州に行っていたという白川亨氏の見解もあり、それなら上方に戻ってきたのはずっと先になります)、利休事件はすでに抜き差しならないところまで進んでいました。大徳寺と三成の関係からしても、三成が画策したというのは考えられません。
 秀次事件の前後は、三成は島津領検地、佐竹領検地を行っていますが、三成自身は現地に赴かず、家臣を行かせていたという中野等氏の見解(「石田三成の居所と行動」藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)があり、それに従えば、三成は上方にいたと見られますが、三成が画策したわけではないことは、秀次の家臣を救おうとして尽力していることや、事件後、若江八人衆など秀次家臣を多く召抱え、彼らが関ヶ原の戦いで三成のために奮戦していることなどからわかります。
 矢部氏の同書では、三成の讒言によって、秀次切腹事件が引き起こされたという捉え方がされた最初は、江戸時代に小瀬甫庵によって書かれた「甫庵太閤記」であると記されています。

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