関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1606 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」2 写しが二通ある「秀次高野住山」令

<<   作成日時 : 2016/04/23 11:06   >>

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 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)の中で、江戸時代に秀次事件の捉え方が「秀次謀反説」から「三成讒言説」に替わったことについて論じた阿部一彦氏の見解が紹介されています。
 すなわち、「『大かうさまくんきのうち』(『太閤軍記』)や『川角太閤記』などは『秀次謀反説』を採ったが、『甫庵太閤記』では明確に『三成讒言説』へと変化した」と。
 「甫庵太閤記」の中に、文禄4年7月13日付の、秀次の切腹を命じた、木食上人宛の三成ら五奉行連署状が記されていますが、矢部氏の同書にはこの書状のおかしな点が、7点にわたって挙げられており、偽文書だと結論づけられています。この書状の問題点は、矢部氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)でも何点か挙げられていますが、さらに詳しく論じられています。
 これらの問題点のうち、私もこの連署状がおかしいと思うのは、当時東北にいた浅野長政の名があること、前田玄以の名が「徳善院玄以」と記されていること(当時は「徳善院法印」と称していることが指摘されています)、「甫庵太閤記」の他にこの書状の存在が裏付けられないこと、この書状が伏見から翌14日の夕刻に高野山に届いたという「甫庵太閤記」の記述は無理があるという点です。秀次が切腹したのは15日の午前10時頃です。
 矢部氏の同書には、小瀬甫庵がこの書状を偽造した目的として、「石田三成ら『五奉行』こそ秀次を切腹させた張本人である、というイメージ作りにあったことは明白だろう」と指摘されています。
 怖いのは、こういう偽の書状によって、三成が秀次切腹を目論んだということがまことしやかに後世にそのまま伝えられ、いまだにそういう捉え方が小説やドラマでされていることです。
 矢部氏の同書には、7月12日付の「秀次高野住山」令の内容について検討され、それが秀吉によって、秀次が長期にわたって高野山に住むことを想定して発せられたものだと論じられています。
 この「秀次高野住山」令は「原本」はないものの、「佐竹家旧記」と「南行雑録」に「写し」が残っていることが明らかにされています。「『南行雑録』とは、水戸藩の二代目藩主徳川光圀が主導した修史事業『大日本史』編集のために作成された史料集」だということも説明されています。
 写しが二通あるということで、その書状の信憑性が高まる気がします。
 矢部氏の同書では、二通の書状の内容の違いについても検討が加えられています。両者の宛名も少し違いますが、「総体的にみて、興山上人=木食応其と、彼を中心とする高野山全体、ひいては真言宗集団に宛てられたと考えてよいだろう」と指摘されています。

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