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zoom RSS 石田三成の実像1607 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」3 7月3日の訊問・道三の天脈拝診怠業事件

<<   作成日時 : 2016/04/25 10:38   >>

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 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)の中で、秀次事件の一連の経緯も記されていますが、まず「7月3日 石田三成ら4名、秀次謀反について訊問(『大かうさまくんきのうち』)」と記されています。
 「大かうさまくんきのうち」は矢部氏の同書でも指摘されているように、二次史料ですから、三成が訊問に行ったことは一次史料から裏付けられません。
 ただし、矢部氏の同書には、「関白秀次と太閤秀吉と、去る3日より御不和」という記述が、「言経卿記」の文禄4年7月8日条にあることが挙げられています。
 秀次尋問が秀吉の命じたものであるとすれば、三成たち奉行衆が行った可能性はありますが、このあたり実際はどうだったのか、今後検討すべき課題だと思われます。
 もっとも、秀次謀反の件については、矢部氏の同書には「史実と即断することはできない」と記され、「大かうさまくんきのうち」で描かれている「秀次の蛮行を一次史料から読み取ることはできない」、「秀吉が秀次を詰問したのが事実だとすれば、その最大の要因はやはり秀頼誕生であり、仮に秀頼が誕生しなければ、秀次は関白の職を守り続けたと考えてよいだろう」と指摘されています。
 矢部氏の同書で、秀次の行動で問題視されたこととして、天皇の侍医である曲直瀬道三(まなせどうさん)が、6月20日に、天皇の容態が悪かったにも関わらず、病気の秀次を診察するために伏見に行ったとする事件(天脈拝診怠業事件)です。「御湯殿上日記」に記載されているその部分が引用されています。
 このことで道三は秀吉の叱責を受けたことが、「御湯殿上日記」の7月9日条に記されているものの、道三が朝廷に薬を献上したことが翌10日条からわかり、「7月9日・10日の時点では、道三に対する秀吉ら政権中枢の処罰感情はさして厳しくなかった」と矢部氏の同書で指摘されています。
 しかし、秀次が切腹したあとは、道三は常陸国に流罪となり、「政権側の態度の相違・変化が示されている」と論じられています。秀次切腹が政権の意思ではなく、秀次が自ら切腹したという矢部氏の見解の論拠の一つとなっています。
 さらに7月10日付の島津義弘宛秀吉朱印状の「今度、関白秀次に不届きなことがあったので、高野山に遣わされた。その他は別に記すようなこともないので、気遣いなきように」という記述も論拠に挙げられています。もっとも、その「高野山に遣わされた」という文面については、「秀次の失脚は『追放』ではなく自発的な『出奔』の可能性もあり、動揺を抑えるための(政権側の)カモフラージュという側面もある」と指摘されています。 

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