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zoom RSS 石田三成の実像1608 大河ドラマ探訪357「真田丸」22 三成の描き方7 検地枡・治部少枡・堺奉行

<<   作成日時 : 2016/04/26 15:18   >>

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 大河ドラマ「真田丸」の制作統括者の屋敷陽太郎氏は、3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」で三成のいい面も悪い面も描き、三成の実施した政策についても触れると言っておられましたが、「政策」については、第15回「秀吉」で、太閤検地に関する場面がありました。秀吉が全国で一律の検地を実施するのはどうすればよいかと問い、信繁が検地枡を統一したものにすればよいと答え、秀吉は予想通りの答えが返ってきたのに満足し、統一した検地枡を使って検地を実施するよう三成に命じていました。信繁を絡ませてくるのは、主人公をとかく重要な場面に関わらせたがるドラマの常套手段です。
 検地枡については、1999年に長浜城歴史博物館で行われた「没後400年特別展覧会 石田三成」に展示され、その図録に次のように記されています。
 「大坂城跡三の丸遺構から発掘された最古の京枡である。秀吉はそれまで一定でなかった枡を統一し、京枡を公定枡と定め太閤検地の基準枡とした。側面と内側底面に『丸に豊』の文字等の焼印があり、底裏には『きのとのとり(天正13年)孫三郎』の刻銘がある。三成もこの公定枡の決定に大きく関与した」と。
 同図録には、江戸時代の「八合枡」も載っていますが、湖北で使われていた「京枡より80〜85%程小さい枡」であり、その一種に「『治部少枡』、すなわち三成が定めたと伝える枡があった」と説明されています。「治部少枡」という名前で江戸時代も使われていたことに、湖北の人々の三成に対する敬愛の念がうかがえる気がします。
 さて、「真田丸」で描かれている三成の悪い面ですが、第16回「表裏」で、三成が千利休を引きずりおろしてやると大谷吉継に言っていました。その理由として、堺の商人たちの望みが利休を通じて秀吉にじかに入ってしまうのが、堺奉行として都合が悪いからだと言っていましたが、こういう描き方は従来の陰謀家の三成の範疇に属するもので、後に利休を切腹に追い込むのが三成という展開の伏線になっているのではないかという懸念を覚えました。
三成と利休が親しかったこと、及び堺奉行の役目については、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)に詳述されています。その内容については、拙ブログ記事でも取り上げたことがあり、改めて後述します。
 まず堺奉行に任命されたのは三成だけではなく、小西行長の父である立佐も一緒でした。立佐については、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)の中で、「秀吉の信用を得て側近として仕え、茶道具など秀吉所持の物品管理担当のような役割を任されていたことはおよそ間違いない」と記されています。立佐と堺の関係については、鳥津氏の同書に、「堺の小西一族出身者」であり、「京都を基盤にキリシタンとして活躍しつつも、堺の町衆や豪商とのつながりを維持し」てきたことも記されています。そういう堺とのパイプ役も務めた立佐だったから、堺奉行に抜擢されたのでしょう。
 また立佐と三成が堺奉行として相談し合っていたことを示すものとして、鳥津氏の同書の中で、天正16年12月20日付の石田正継定書の中に、「『定』は堺奉行である石田正継(三成の父)と立佐が両人相談の上で決定すべきであるが、今回は立佐不在のためやむなく正継の裁量で決定した」との記述があることが挙げられています。
  
 

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