関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1612 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」4 「御湯殿上日記」の記述・木食上人の急報

<<   作成日時 : 2016/04/30 14:48   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)を読んでいて感じるのは、われわれが当たり前のことのように思っていたことが、事実とは限らず、考え直す必要があるのではないかと思い知らされたことです。
 秀次は秀吉の命を受けて高野山に追放されたということもそうであり、矢部氏の同書では、秀次が自ら出奔した可能性が指摘されています。
 秀次が高野山に向かったのは7月8日ですが、矢部氏の同書では、その時点で秀次を追放するとの秀吉側の命令書などは存在していないことが述べられ、秀次の出奔についての詳しい記述がある「御湯殿上日記」の文言について、検討が加えられています。
 「『今朝、関白(秀次)へ太閤(秀吉)より御使いがあって、【謀反とやらの噂がお耳に入り、秀吉の機嫌が悪いので、[御ことはり御申候まて]】と伝えられ、秀次は高野山へ御のぼりになった』、ということを申してきた」と。
 「御ことはり御申候まて」の箇所について、「(秀次が)御弁解を御申しになる迄(の間は)、ということで」と、「(秀吉が)御決断をお伝えするまで、ということで」の二通りの解釈がなりたつものの、「秀次の高野山への出奔は永続的なものではなく」、「『限られた時間』だろうと認識されていることがわかる」と指摘されています。
 さらに「秀次出奔の当日、しかも数時間後に、その『急報』を朝廷に伝えたのは」、「秀次を受け入れることになった木食応其上人を責任者とする真言宗側」であるとの「可能性が高い」ということも記されています。
 「御湯殿上日記」の史料的な価値については、矢部氏の同書に、「禁中清涼殿に隣接した御湯殿上の間に仕えた女房たちの手になる輪番日記であ」り、「ある意味で天皇に最も近い場所で書かれた一次史料であり、重要かつ信頼すべき情報も数多く記されている」と評価されています。
 「御湯殿上日記」には、前述したように、曲直瀬道三が「天皇よりも秀次の診察を優先した」、いわゆる「天脈拝診怠業事件」に関する記述があり、それが「『秀次事件』の要因の一つととらえている」宮本義己氏の見解も、矢部氏の同書で紹介されています。また同史料の7月8日条には、「秀次が御腹をお切りになったが、無実だからこのようになった」という記述があり、矢部氏はここに注目し、秀次が自ら切腹したという論拠の一つに挙げておられます。
 木食応其上人側の情報伝達網の速さは、秀次が切腹した時にも発揮されたと矢部氏によって指摘されています(これについては後述します)。
 木食上人と三成の関係は親密でしたが、秀吉が高野山を攻めようとした時に、三成が木食上人の意向を受けて秀吉を説得したのが、その最初でした。三成が高野山に経蔵、蔵経を上人のために寄進しています、九州攻めの際にも、二人は行動を共にしていますし、関ヶ原の戦いの後、三成の三男の左吉は上人に託され出家しました(白川亨氏の「石田三成の生涯」【新人物往来社】)。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1612 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」4 「御湯殿上日記」の記述・木食上人の急報 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる