関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1618 今福匡氏「毛利勝永」福本日南「大阪城の七将星」1 父吉成が小倉城主になるまで

<<   作成日時 : 2016/05/12 17:38   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)を読みましたが、毛利勝永について新たな知見をいろいろと得られました。毛利勝永については、大正10年に出版された福本日南の「大阪城の七将星」の「毛利勝永」を、有川淳一氏が抜き刷りして本にされたものを以前ご恵贈賜り、勝永の事績や大坂夏の陣の活躍ぶりなどを知ることができました。
 今福氏の同書は、さまざまな史料などを駆使し、ゆかりの地にも足を運び、精力的な調査をし、勝永や父親の吉成(勝信)の実像に迫っています。
 吉成も勝永も関ヶ原の戦いの際は、西軍に属しましたから、そういう意味でも三成との関わり合いがありました。
 まず「大阪城の七将星」には、関ヶ原の戦いまでの吉成と勝永の事績などについて次のように記されています。
 「勝永の父壱岐守勝信は尾張の人。太閤秀吉がまだ世にその名が顕われない時代から随従して各地に転戦し、毛利氏との対抗、中国大返しの殿(しんがり)から、山崎、さては賤ヶ岳の大戦等に殊勲をたて、九州平定するにおよんで豊前小倉六万石の城主に封じられ、ならびに香春城をも領有し、実に十万余石のれっきとした大名となった、この時、それまでの森姓を、秀吉の命で毛利姓となり、毛利壱岐守と称して九州の奉行を重ね、大坂政府の政令を施行してきた。
 勝永はその嫡男に生まれた。長ずるにおよんで、仕官して豊前守と称し、豊臣二代の主に仕えて無二の忠誠を保持していた」と。
 吉成が小倉の城主になったことは、大河ドラマ「軍師官兵衛」でも描かれていました。吉成が勝信の名で呼ばれたことは「一次史料では確認できない」と今福氏の同書に記されています。また吉成の出身地についても、今福氏の同書で「尾張、美濃、近江のいずれかに特定することには躊躇せざるを得ない」と指摘されています。
 今福氏の同書には、吉成が天文21年(1552)生まれであり、「秀吉にとって古参の家臣たち、たとえば竹中重治、黒田孝高、浅野長吉、山内一豊たちより五、六歳年少であり、石田三成、加藤清正、福島正則らいわゆる『子飼い』の諸将たちよりも一回り年長である」と記されています。
 三成が生まれたのは、永禄3年(1560)ですから、吉成より8歳年下です。
 吉成が史書に名を表すのが九州攻めあたりからであるものの、小牧・長久手の戦いから「森三右衛門尉」が登場し、天正13年10月23日以降にその名が見えなくなり、代わって「翌天正14年11月の九州陣において、『森壱岐守』が登場する」ところなどから、二人は同一人物ではないかと推定されています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1618 今福匡氏「毛利勝永」福本日南「大阪城の七将星」1 父吉成が小倉城主になるまで 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる