関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1619今福匡氏「毛利勝永」福本日南「大阪城の七将星」2 関ヶ原の戦い前後の動向1

<<   作成日時 : 2016/05/13 16:46   >>

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 毛利勝永も父親の毛利吉成も関ヶ原の戦いの時は西軍につきました。
 このことについて、福本日南「大阪城の七将星」では、次のように記されています。
 「父の壱岐守勝信は本国小倉の城にたて籠り、豊前守勝永はこの時23歳であったが、藩兵を率いて東上し、伏見の攻城にも参加し、転じては美濃の南宮山まで押し出して東軍に対抗したが、不幸にして西軍はこの関ヶ原に大敗した」と。
 今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)には、関ヶ原前後の勝永と父の吉成の動きについてもっと具体的に記されています。
 まず、7月上旬になって、九州勢の龍造寺高房、鍋島勝茂、毛利勝永が同道して、大坂を出陣し、会津攻めに向かおうとしますが、近江愛智川まで来て、進軍が遅滞しているうちに、「三成の兄木工頭(もくのかみ)正澄が一万ばかりの人数を率いて、愛智川に関所を設けて、関東へ向かう人数を足止めしてしまった。そうこうしているうちに、安国寺恵瓊が使者としてやってきて、龍造寺・鍋島・毛利の軍勢を関東へ発向させるわけにはいかないと告げ、菊首座(きくしゅそ)という僧侶をして家康の非義を書き立てさせ、西国大名衆を前に演説を行った」と。
 三成は7月2日、垂井まで来ていた大谷吉継を佐和山に招いて、家康に対して挙兵することを打ち明け、吉継の同意を取り付け、安国寺恵瓊とも結んで7月11日に挙兵しました。三成はすぐ手を打ち、正澄がその意を受けて関所を設けてそういう行動に出たわけです。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「石田正澄」の章にも、関所を設けたことが記されています。
 家康弾劾状である「内府ちがひの条々」が前田玄以・長束正家・増田長盛の3奉行の名によって出されますが、この作成には三成が大きく関わっていました。もっとも、この時点で、三成は大坂城には来ていなかったものと思われますが。
 同日、毛利輝元は大坂城に入っています(今福氏の同書では、7月15日だとされていますが、光成準治氏「関ヶ原前夜」(NHKブックス)では17日と記されています)が、この毛利氏の迅速な動きは、三成と事前準備がされていたものと想像されます。
 輝元の上坂と勝永らの動きが関係していることが、今福氏の同書で指摘されています。
 すなわち、「勝永や龍造寺・鍋島勢の緩慢な動きは輝元上坂の影響もあったろう。吉成もおそらく毛利輝元の大坂入城と前後して上坂し、石田三成、安国寺恵瓊らが家康への弾劾状を諸大名へ回覧した前後には上方にあったと思われる」と。

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