関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1620 今福匡氏「毛利勝永」3 関ヶ原の戦い前後の動向2 伏見城攻めでの活躍

<<   作成日時 : 2016/05/14 12:20   >>

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 大河ドラマ「真田丸」で、岡本健一さんが毛利勝永役に決まりましたが、どのような活躍を見せてくれるのか、今から楽しみです。ドラマでも関ヶ原の戦いの時に登場してくるのでしょうか。大坂の陣につながるドラマの伏線として、出てきてほしいものですが。
 毛利勝永は伏見城攻めに加わりましたが、今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)には、その活躍ぶりが具体的に記されています。
 三成も7月29日に佐和山を出て、伏見城攻めに加わっています(中野等氏「石田三成の居所と行動」)から、毛利勝永との接点はあったわけです。なかなか城が落ちないので、三成は督戦に来たと思われますが、伏見城は8月1日に落城しています。三成は落城を見届けず、7月30日に大坂に入城しています。なお、通説とは違って、三成は挙兵後、この時が初めての大坂入りであり、秀頼・淀殿に拝謁し、二大老、三奉行とも会って軍議を重ねたものと思われます。
 今福氏の同書には、伏見城攻めにおける毛利勝永隊の活躍について、次のようなことが記されています。
 「城への一番乗りは、鍋島勢の成富十右衛門であった。鍋島勢とともに、勝永の一隊も城内へ突入した。
 この時、勝永は家臣鳥飼左助と主従二人で月見櫓へ火矢を射かけた。
 敵がひるんだのを機に、毛利勢は舟入の黒金門へ寄せかけた。勝永の家臣岩村清右衛門と鳥飼左助は、鑓(やり)を構えて城内へ突入した。
 清右衛門が敵の鑓にかかって倒れたところに、鳥飼左助が近づいてくる敵を討ち取り、同輩の危機を救った」
 「毛利久左衛門は、櫓より鉄炮で狙撃されて倒れた。(中略)味方が逃げる中、鳥飼左助は一人とって返し、くぐり戸から出てきた敵兵5、6人を鑓で押し込み、討たれた毛利久左衛門を担いで城外へ逃れた」などと。
 この時の史料としては、杉助左衛門の聞書、鳥飼の覚書などが挙げられています。
 この時、勝永勢が討ち取った首は六つであり、三つは鳥飼左助が討ち取り、残りは勝永が配下に預けたということが、鳥飼の武功書付に記されていることも紹介されています。
 もっとも、勝永勢の消耗は激しいものがありましたが、こういうことになった要因として、今福氏の同書には、「苛烈な伏見城総攻撃は、毛利秀元の下知によってなされたが、損害が大きい先鋒は、鍋島、小倉毛利など九州勢に任されたらしい」と記されています。
 この時の勝永の働きについて、二大老や奉行衆からの感状が三点出されていますが、その中に三成の名は
ありません。しかし、鍋島勝茂宛の8月5日付の感状には、二大老・三奉行と共に三成の名も入っています。
 

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