関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1621 今福匡氏「毛利勝永」4 関ヶ原の戦い前後の動向3 南宮山に布陣したかは不明

<<   作成日時 : 2016/05/15 10:46   >>

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 昨日付の拙ブログ記事で触れたように、今福匡氏「毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、勝永と同様、関ヶ原の戦い前の伏見城攻めで活躍した鍋島勝茂に宛てた8月5日付の感状に、三成の名前があることが記されています。
 この感状から、三成の動向がわかります。中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】)には、「8月5日大坂城を出て佐和山に戻り、8月9日美濃垂井に出陣」と記されています。
 8月5日付で三成は真田昌幸にも書状を書いており、これらの感状・書状を出した後、大坂城を出たものと思われます。この5日付の昌幸宛書状に、三成は「備之人数書」を付けており、西軍の軍事作戦計画を記しています。その計画表は、白峰旬氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)にも掲載されていますが、伊勢口(伊勢方面軍)、美濃口(美濃方面軍)、北国口(北国方面軍)、勢田橋爪在番(瀬田橋防衛軍)、大坂御留守居(大坂城鎮守軍)に分かれています。三成自身は美濃口に配置され、実際、美濃に出陣しています。
 毛利勝永は伏見城を落城させた後、伊勢口方面軍に加わり、美濃伊勢安濃津城攻めに参加しますが、今福氏の同書には「(伏見)城攻めで人的損害が著しかった毛利勝永勢は、安国寺恵瓊の支配下に入った」が、「以降の勝永とその手勢は存在感が低下し、精彩を欠く」と指摘されています。
 安国寺恵瓊がこの戦いで取った首数は47ですが、「安国寺恵瓊が8月25日付で、増田長盛、堅田兵部少へ宛てた『伊勢国津城合戦頸注文』には、安芸毛利勢が討ち取った首数が記され、諸隊の後に、『頸八 毛利豊前守』という一行が記されている(『毛利家文書』三七九)。安国寺恵瓊の一手になる四十七という首数には、毛利勝永勢による『頸八』が含まれているのである」と記されています。
 この後、毛利秀元や安国寺恵瓊は南宮山に移動しますが、毛利勝永も一緒にいたかどうかは不明だと、今福氏の同書で指摘されています。この点について、12日付の拙ブログ記事で触れたように、大正10年に発行された福本日南「大阪城の七将星」の「毛利勝永」では、「伏見の攻城にも参加し、転じては美濃の南宮山まで押し出して東軍に対抗した」と記されています。
 勝永勢が安国寺恵瓊の支配下に入ったままだとするなら、南宮山に布陣したと考えるのが普通ですが、それを裏付ける一次史料はないようです。軍記物である「『関原軍記大成』には、勝永は南宮山に布陣したという記述があ」ると、今福氏の同書で記されています。一次史料で確認できるかどうかが、今後の課題だと思われます。伊勢まで同行していた龍造寺・鍋島勢は関ヶ原方面に向かわず、それが運命の分かれ目になったことも指摘されています。

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