関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1622 今福匡氏「毛利勝永」5 関ヶ原合戦前後の動向4 南宮山に布陣したかは不明2

<<   作成日時 : 2016/05/16 10:35   >>

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 昨日付の拙ブログ記事で触れたように、今福匡氏「毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、毛利勝永は南宮山に布陣したかは不明だと指摘されています。
 今福氏の同書には、福岡市博物館所蔵の「関ヶ原戦陣図屏風」が取り上げられていますが、同図屏風では、「『毛利豊前守』は、松尾山の東側、藤川(藤古川)沿いに布陣して」いるものの、他の関ヶ原合戦の布陣図には、その位置には何の武将名も記されていないと記されています。
 関ヶ原合戦の布陣図については、前にも拙ブログ記事でも触れたように、白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)で、江戸時代に描かれたものは二つの系列があるものの、リアルタイムで描かれたものではなく、いずれも徳川方の視点に基づくもので信憑性が低く、明治時代に参謀本部が作った「日本戦史」の関ヶ原合戦の布陣図はオリジナルのフィクションであると指摘されています。われわれは通説の関ヶ原合戦の布陣図を真に受けているわけです。
 福岡市博物館所蔵の「関ヶ原戦陣図屏風」には、家康の「問鉄砲」も描かれていますが、「問鉄砲」は江戸時代に作られたフィクションであることが、白峰氏の同書で論じられており、その見解が白峰旬氏のものだとは今福氏の同書では記されていないものの、「現在では、小早川勢は初めから東軍に同心していたのではないか、という見方がひろまっている。家康が内応を促すべく小早川陣へ威嚇射撃(いわゆる『問鉄砲』)したという話は、どうやら江戸時代になってから編纂物に盛り込まれたものであるらしい」と記されています。
 三成たち西軍が大垣城を出て関ヶ原に移動した理由については、今福氏の同書には触れられていませんが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、動きの怪しい小早川秀秋が勝手に松尾山に陣を置いたために、その動きを牽制するためだったと述べられています。当時の史料にも、西軍の関ヶ原への転進は小早川の「謀叛」に備えるためだという記述があることも示されています。以前にも取り上げたように、家康の侍医である板坂ト斎の日記「慶長記」にもそのような記述があります。
 軍記物である「関原軍記大成」には、勝永が南宮山に布陣していたことを示す記述が、今福氏の同書で紹介されています。
 すなわち、関ヶ原の戦いの後、近江まで退却した勝永が、加藤嘉明へ家康に対する嘆願書を使者に持たせましたが、その中に「我らは南宮山よりここまでたどりつきました」という記述があります。この使者は途中で武者狩りに遭って討たれてしまい、従兄弟の宮田甚三郎・小寺孫介を加藤家の陣所へ派遣し、書状の内容を伝えさせたところ、加藤は了承したと。
 

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