関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像1624 大河ドラマ探訪369「真田丸」33 三成の描き方16 豊臣政権を崩壊させた茶々?

<<   作成日時 : 2016/05/18 18:03   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 大河ドラマ「真田丸」では、茶々が秀吉の妻(ドラマでは側室)になったのは天正15年のこととして描かれていましたが、この時期について福田千鶴氏の「江の生涯」(中公新書)には、「天正14年(1586)正月までに茶々は祝言をあげ、関白秀吉の妻になった」と記されています。
 その根拠は、堀秀政が秀吉の右筆(ゆうひつ)であった安威了佐(あいりょうさ)に宛てた書状にある「御祝言」という文言であり、秀吉の茶々との「御祝言」だと指摘されています。こういう福田氏の見解については、以前、大河ドラマ「江」の茶々の結婚の時期を取り上げた際に、拙ブログ記事で紹介したことがあります。
 「真田丸」で描かれた、信繁と茶々との絡みはドラマ的な設定であり、すでにこの時点で秀吉の妻となっていたなら、こういう絡みもあるはずもありません。
 「真田丸」で加藤清正が茶々と噂になった家臣たちを、秀吉の命を受けて次々と粛清してゆくというのも、ドラマ的な設定であり、清正は損な役回りを与えられているものだといささか同情的になりました。清正は信繁が茶々と親しくしているのを見て、信繁を始末しようとしていた時に、三成が救いの手を差し伸べ、清正を九州に追いやると言っていました。もっとも、その後で、大谷吉継は清正を九州に派遣するのはすでに決まっていたことで、三成に礼を言うことはないと明かしていましたが(史実では、九州に向かったのは、清正だけでなく秀吉も三成も吉継も数々の武将も一緒で、大軍勢でしたが) 。
 もっとも、その後で秀吉は朝鮮に攻め込むことを考えていると吉継が信繁に言う場面があり、吉継が朝鮮侵攻をどう考えているのか、気になりました。それは今後のドラマの展開を見なければいけませんが、史実では、文禄の役の際、吉継は三成、増田長盛と共に奉行として渡海し、戦いの無謀なありさまを見て、戦いを続けることの困難さを率直に記した書状を共に書いていますし、その後和平交渉に積極的に関わっていきます。実際、そういうふうに描かれるどうか注視していきたいと思います。
 「真田丸」で、茶々が秀吉の妻になったことに対して、三成が「殿下が信長を越えるということ。これから先殿下はどこへ向かわれるのか」と信繁の前でつぶやく場面がありましたが、豊臣政権の未来に不安を感じての発言だと思われます。その三成の言葉に呼応するかのように、その後、「それは間違いなく秀吉政権が崩壊へ向かう最初の一歩であった。だが、豊臣家の人々は、誰もそのことを知らない」というナレーションが流れましたが、茶々(淀殿)が豊臣家をつぶしたという江戸時代からの捉え方が踏襲されているのではないかという思いを持ちました。茶々が奔放な性格として設定されていることもその一環ではないかという気がします。
 茶々が信繁に、「われわれは同じ日に死ぬ」と予言めいたことを言っていましたが、ドラマの伏線としてそういう場面を用意したのでしょうが、少々安易な描き方ではないでしょうか。
 
 
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像1624 大河ドラマ探訪369「真田丸」33 三成の描き方16 豊臣政権を崩壊させた茶々? 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる