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zoom RSS 三成の実像1625大河ドラマ探訪370「真田丸」34 三成の描き方17 九州攻めの清正の官僚的な面 

<<   作成日時 : 2016/05/19 18:35   >>

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 前述したように、大河ドラマ「真田丸」では、秀吉ら20万人に及ぶ大軍勢による九州攻めがすっ飛ばされ、加藤清正が兵糧の調達などの任務で九州に派遣されていました。それは決まっていた人事なのに、三成が信繁に清正を九州に行かせると恩着せがましく言う場面を設けているところは、清正が三成のことを誤解する伏線の一つになっている気がしました。また大谷吉継が、信繁に事実を話すところは、ここでも吉継が三成の誤解を生みやすい言動をカバーする、取り持ち役としての役割を与えられている気がしますし、そういう人物設定は今後も続くのではないかという危惧の念を持ちます。
 ところで、九州攻めの時の実際の清正の行動について、熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」には、次のようなことが明らかにされています。
 秀吉が天正15年(1587)1月1日に出した九州攻めのための「陣立書」によると、「清正は秀吉本隊の後方守備を担当する『後備(うしろぞなえ)』に位置し、170人の動員を課せられている」と。
 さらに「天正15年5月に清正は讃岐の没収地を管理するよう秀吉に命じられている。従軍中の清正は、家臣を派遣してこれに対応。8月には自ら赴いて新領主・生駒親正に城を引き渡し、任務を完了していた。こうした動きを見る限り、この時点で清正の役割は官僚的なもの。武将としての働きは、さほど期待されていなかったのかもしれない」。
 ここからは、武断派として捉われがちな清正の姿とは違ったものが見えてきます。「真田丸」で茶々と噂が立った男たちを井戸に投げ込む荒々しい武将とは大いに異なる姿です。そういう意味では、吏僚派とされる三成と共通するものがあります。 
 清正は翌天正16年閏5月15日付で、領内で起こった一揆の罪を問われ切腹させられた佐々成政に代わって、肥後半国19万5千石を与えられますが、「加藤清正の生涯」には、治世者としていかに有能だったかについても記されています。治世にすぐれていたという点でも、清正は三成は共通しています。
 武断派と吏僚派という色分けをわれわれはよくしますが、それでは捉え切れない面があることを痛感します。
 ところで、九州攻めの際の三成の事績ですが、大軍勢の兵站を大谷吉継・増田長盛と共に担当したこと、島津氏の降伏に際して、義久の娘の亀寿を人質として受け取りに鹿児島まで行ったこと、なおも抵抗を続ける大口城の新納忠元のもとに、伊集院忠棟と共に赴いて説得し開城させたこと、博多町奉行として博多の復興に尽力したこと、義久の上洛、その後の義弘の上洛の際の接待に当たったことなどが挙げられます。
 三成はこれ以降、島津氏の取次を務め、島津領検地を担当し、島津氏との関係を深めました。

 
 

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