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zoom RSS 石田三成の実像1613 大河ドラマ探訪362「真田丸」27 三成の描き方11真田討伐中止・大政所人質

<<   作成日時 : 2016/05/02 11:56   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第17回「再会」は、秀吉が家康に真田攻めを命ずるものの、それは家康の顔を立ててやるためで本意ではなく、すぐに中止するという描き方がされていました。三成もそのことを重々承知しており、秀吉に真田家を討伐しないように嘆願した信繁に対して、討伐が中止になり家康が上洛した時に、三成が信繁に向かって「真田家と徳川のこと、決していくさにはせぬと言ったではないか。物事の裏を読め。素直なままでは生きてはいけぬ」と意見していました。
 まず秀吉の真田攻めがポーズであったというドラマの捉え方ですが、真田攻めが中止になった理由について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)に、「上杉景勝の嘆願が背景にあった」こと、「真田討伐もまた、家康に上洛・出仕を決心させようとする材料のひとつであった」ことが挙げられています。すなわち、「家康の上洛が徳川家中で決したのは、真田攻めの中止が決まった翌日の9月26日であった(『家忠日記』)」と。
 またこの点について、平山優氏の「真田三代」(PHP新書)には、「秀吉も、本気で昌幸の討伐を意図していたわけではなく、真田問題を利用して家康の歓心を買い、安心して上洛できる関係を構築しようとしていた」と指摘されていました。
 こういう見解から見て、真田討伐が、家康の上洛を促すための材料に使われたのは、事実でしょう。
 丸島氏と平山氏の同書によって、真田討伐前後の史実をたどれば、次のようになります。
 「7月 秀吉が徳川家康による真田討伐を容認する」、「8月3日に上杉景勝に真田氏への支援を禁じ秀吉が昌幸を『表裏比興者』と評した」、「6日に家康に真田昌幸成敗を認める条目を送った」「9日、自ら出馬して真田氏を討伐するという意思を表明した」と。
 それが9月25日になって真田攻めの中止が決まるわけです。
 「真田丸」では、秀吉の母の大政所が、人質として家康のところに赴くところが描かれていましたが、岡崎城に着いたのは10月18日のことであり、家康が上洛して大坂城で秀吉に拝謁するのは27日のことです(『家忠日記』)。
 「真田丸」で大政所を家康のもとに送るという件をめぐって、加藤清正・福島正則が三成に食ってかかる場面がありました。三成に対して「おまえには情ってものがないんだよ、冷たいんだよ」と清正が言ったのに対して、三成は彼らが去った後、「バカと話すと疲れる」という言葉を吐いていました。その場に居合わせた吉継は、「お主らは少々治部殿を少々誤解しておる。殿下に尽くそうという思いはお主らと少し変わらん」とフォローしていましたし、信繁も後で三成に対して「大政所をお守りするために力を尽くすとなぜおっしゃらないのですか」と言っていました。吏僚派と武断派の対立、行き違いが天正14年の時点からすでにあったという捉え方がされているわけですが、そういう捉え方も三成の描き方も一面的であるような印象を受けます。 

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