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zoom RSS 石田三成の実像1627 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」6 秀次切腹前後で起請文の作成方針変化

<<   作成日時 : 2016/05/21 21:17   >>

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 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)には、7月12日付の石田三成・増田長盛連署血判起請文と、秀次が切腹した後の、血判起請文の違いについて、「起請文の作成方針が『個別』から『集団』へと変化した、ということである」と指摘されています。
 7月12日付の石田三成・増田長盛連署血判起請文には宛名がありませんが、同じ日付を持つ、連署血判起請文と同じように1300字を超える神文を持つ「毛利家文書」の「霊社上巻起請文案」があり、その筆跡が西笑承兌のものであること、及び紙質から、「毛利家に送られた『霊社上巻起請文案』が豊臣政権から送付されたものであること、毛利家にも独自に血判起請文を作成するよう要請されていたこと」がわかると指摘されています。
 「『集団』へと変化した、ということ」については、秀次が切腹した後の7月20日付の織田信雄以下二十七名連署による血判起請文が出されたことが挙げられています。
 もっとも、同日付の宇喜多秀家血判起請文、前田利家血判起請文もあり、これは個別のものですが、宛名がある点が、7月12日付の石田三成・増田長盛連署血判起請文とは決定的に違うと点だと指摘されています。
 その宛先は「宮部継潤・前田玄以・富田一白・長束正家・石田三成・増田長盛という六名の『奉行衆』」であり、「この六名は、諸大名が提出した起請文を秀吉に披露する役割だったと考えられる」と指摘されています。
 7月20日付の織田信雄以下二十七名連署による血判起請文については、5名の大名の名が追記されており、実際に出されたのは後日のことであり、秀家と利家の血判起請文の日付に合わされたものだと、矢部氏の同書で指摘されています。
 追記した大名の一人が上杉景勝ですが、尾下成敏氏の「上杉景勝の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、文禄4年7月「(秀次事件という)重大事の発生を受けてか、国許にいた景勝は、同月中には上洛し(『略記』)、8月4日に入京、その日のうちに伏見城の秀吉の許に出仕した(『兼見』)」などと記されています。
 日付の入っていない7月付の、徳川家康・毛利輝元・小早川隆景連署起請文もあり、これも六奉行衆宛のもので、宇喜多秀家、前田利家を含めた「清華成」大名たちに対して、秀吉切腹という政権側にとっては「想定外」の出来事に、その事態に対処すべく、早急に起請文を出すよう政権側が要求したことだと矢部氏の同書で指摘されています。上杉景勝も「清華家」大名の一人であり、彼の起請文も絶対に必要だったものの、上洛が遅れたために、追記という形になったものだというわけです。
 7月20日付で、諸大名に対して秀次の遺領配分がなされ、秀次の遺領を受け取った大名と石高が「佐竹家旧記」の「雑記」に記載されていることも、矢部氏の同書に記されています。

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