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zoom RSS 石田三成の実像1628 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」7 木食上人による迅速な情報伝達機関

<<   作成日時 : 2016/05/22 10:58   >>

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 矢部健太郎氏の「豊臣秀次の切腹」(角川書店)の中で、秀次切腹の急報を伝えたのは、福島正則たち使者ではなく、高野山の木食応其上人であり、真言宗の諸寺院を経由して京へ届けられたが、「それは、伏見城や御所ではなく、東寺である」と指摘されています。
 秀次が切腹したのは7月15日の午前ですが、翌日には京にその情報が伝わっていました。それがわかるのは、「御湯殿上日記」「兼見卿記」「言経卿記」などの日記の記述です。木食上人による迅速な情報伝達機関があった例として、矢部氏の同書では、秀次事件の三年前の木食上人が発した書状が挙げられています。
 秀次切腹の急報は、16日には東寺から御所や伏見城と伝えられたと言いますから、驚異的な早さです。
 木食上人と三成の浅からぬ関係については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「紀伊・高野山」でも記しました。
 秀吉が天正13年に紀州攻めをした時、「木食上人が間に立って、三成たちと相談の末、高野山が降伏を申し出て、滅亡を免れて以来の関係だった」こと、秀吉が天正15年に「島津攻めを行った際、和睦に力を注いて」おり、「島津義久が初めて上洛した際、堺まで案内役を務めたのは、木食上人だったが、三成も下関で義久を迎え、堺でも多くの小船を出して、義久の船に漕ぎ寄せ歓待している」こと、関ヶ原の戦いの際には、大津城・安濃津城の開城交渉に当たっていること、関ヶ原の戦いの後、「佐和山城にいた三成の三男の左吉(さきち)は、津田清幽(つだきよふか)に伴われて城を脱出し、清幽の取りなしによって命を救われ、木食上人に預けられて出家している」こと、「三成の兄の正澄の息子である主水正(もんどのしょう)は、佐和山落城の際は大坂城にいたが、高野山に赴き木食上人をたよろうとした」ものの、「上人は奔走中で不在のため、主水正は頼る相手もなく、高野山を下り12月に自害した」ことなど。こういうことは白川亨氏の先行研究によるものです(「石田三成の生涯」【新人物往来社】)。
 また三成が高野山に自分の逆修墓を建て、経堂を寄進していることも「三成伝説」に記しています。もっとも、同書では、秀次事件に関して、通説に従い、「福島正則たちが切腹を言い渡すためにやって来た」と記しましたが、正則たちが持参したのは「秀次高野住山」令であり、切腹命令ではなかったとする矢部氏の見解を知ってからは、その記述を見直す必要性に駆られています。
 確かに秀吉が母の菩提を弔うために金剛峯寺(当時は青巌寺)を建立したのですから、そのような神聖な場所で、切腹させたというのも今から思えば、おかしなことです。その点も、むろん、矢部氏の同書では触れられていますが。

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