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zoom RSS 石田三成の実像1629 「ブラタモリ 伏見」 伏見は首都だったということを巡って

<<   作成日時 : 2016/05/23 10:52   >>

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 NHKの番組「ブラタモリ」で伏見を回っていましたが、大半は自分も何度も歩いている馴染みのあるところだったものの、城下町があったあたりの道の段差には自分自身、目をとめていなかったので、いろいろ勉強になりました。
 「ブラタモリ」では、伏見は日本の首都だったという題で、伏見を実際に歩くことによって、秀吉がなぜ伏見を首都にしたのか、どのようにして首都にしていったのかが明らかにされていました。
 大坂城が豊臣家のプライベートな家であったのに対して、伏見城が豊臣政権のオフィシャルな場所であったとする、京都高低差崖会の崖長の梅林秀行氏の見解が示されていました。伏見が江戸時代は桃山と呼ばれていたことから、信長・秀吉時代は安土桃山時代と呼ばれており、安土大坂時代とは言わないことも指摘されていました。
 もっとも、安土大坂時代と呼ぶべきだという脇田修氏の見解があることは、以前拙ブログ記事で触れたことがあります。
 また曽根勇二氏の「秀吉による伏見・大坂体制の構築」(『偽りの秀吉像を打ち壊す』【柏書房】所収)では、「文禄2年以降、秀吉は伏見と大坂を拠点とすることを考え、伏見と大坂を一体化させる都市整備を図っていた」と指摘され、具体的には秀吉は「大名の伏見・大坂移住」を進め、「文禄3年正月には、伏見城と大坂城の普請がほぼ同時に行われていた」ことなどが記されています。
 確かに大坂も伏見も両方とも首都だったのかもしれませんが、伏見城が豊臣政権のオフィシャルな場所だったという点に関しては、政権の実務を担当した五奉行の曲輪が伏見城の中にあったことからも云えます。
 「ブラタモリ」でも、伏見の古地図が出ていましたが、その中に治部少丸の名もありました。残念ながら三成が政務を執り、居住もしていた治部少丸あたりや治部池のあたりは、番組では歩いていませんでしたが。伏見城の本丸や治部少丸があったあたりは、今は明治天皇陵の敷地内になっていますので、映像として出すのは問題があったのかもしれません。
 秀吉が伏見に目をつけたのは、京都、大坂、奈良を見渡せる場所にあり、地の利がいいからであり、タモリさんらは今は閉鎖され入れなくなっている伏見桃山城の上に特別に登り、そのことを確かめていました。
 また秀吉は伏見の城下町を作るのに斜面を利用し、そこに無理に直線の道を作ったために、道が下がったり上がったりしていることを、番組では実際に歩いて確かめていました。深さ15メートル、幅150メートルの巨大な北堀を作ったこと、伏見と小倉を直線で結ぶために、巨椋池(おぐらいけ)に太閤堤を築いたことなども紹介されていました。

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