関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1632 大河ドラマ探訪373「真田丸」37 三成の描き方20 金くばりをめぐって

<<   作成日時 : 2016/05/26 16:26   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、三成は落首事件の際、秀吉にこれ以上の処分は無用だと諫言したため、秀吉に切腹を命じられそうになったところを、北政所に命を救われ、感謝の言葉を述べていましたが、北政所は「京・大坂の人たちが喜ぶことを、何でもいいから考えてください」と依頼し、三成は「かしこまりました」と答えていました。その時、信繁が金くばりを思いつくという展開になっており、ここも大河ドラマでありがちのことながら、主人公の手柄にされていました。
 金くばりについては、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)の中で、次のように記されています。
 「(5月)20日には聚楽城において、自己の遺物として金六千枚、銀二万五千枚を六宮、諸大名や寺社に配分する、いわゆる金賦(くば)りを行った。この時、茶々の妊娠が諸人に披露され、この七日後には鶴松が誕生している(『言経』、『湯殿』、『多聞』)。」
 「金賦りは日一日と子の誕生をまちかねた秀吉の喜びを表す行為であったに違いないが、諸人にわが子の誕生を祝福させるための前祝いとして挙行されたものであり、秀吉独特の演出であった。茶々の懐妊に疑念を持つ噂があるなかで、生まれた子は有無をいわさず天下人秀吉の子であることを周知させようとしていたのである」と。
 山室恭子氏の「黄金太閤」(中公新書)には、「金賦(くば)り」も、秀吉が王者としての姿を庶民に植え付けるための派手な演出の一つとして位置づけられていますが、このパフォーマンスについて、次のような記載があります。
 「当日聚楽に呼ばれて秀吉の手から金銀を押し戴いたのは三百人、六宮智仁(ろくのみやともひと)のような皇族もいたが家康を筆頭とする武家が主な対象であった」と。
 こういうことからすれば、庶民が「金賦り」の恩恵に与ったわけではないことがわかりますが、金銀をこのよう
に惜しみなく使ったという宣伝効果は世間に広く広まっていたのではないかということも山室氏の同書に記されています。
 「真田丸」では、信繁が金をくばることを提案したのに対して、三成は「いささか品がないな」と言うものの、北政所は「それぐらいやった方がいい」と信繁の提案に賛成していました。
 三成は、自分の居城である佐和山城に金をかけず質素な作りにしましたから、「金賦り」をする秀吉とは全く価値観が違っていたかもしれません。もっとも、城を質素にしていた分、家臣を高禄で召し抱えていましたし、関ヶ原の戦いでも金をほとんど使い果たしましたから、そういう意味では、金を有効に使っていたわけであり、「金賦り」も、有意義な金の使い方として三成は評価していたという可能性もあります。
 
 

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