関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1633 大河ドラマ探訪374「真田丸」38 三成の描き方21 落首事件をめぐって3

<<   作成日時 : 2016/05/27 11:09   >>

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大河ドラマ「真田丸」で描かれていた落首事件ですが、尾藤道休の首を差し出して、三成は秀吉にこれ以上の処分は不要だと秀吉に諫言していましたが、実際は処分が続いたことが福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に記されています。
 本願寺から道休の首が差し出されたのは3月1日ですが、「2日は牢人の『武衛ケンユウ』と尾藤道休の居宅近くに住む町人らが捕らえられた。3日も関係者の捕縛は続き、4日には光佐・本願寺坊官以下、諸侍・町人・家主にいたるまで科人を隠匿しない旨の起請文の作成が求められ、3月2日付けで血判起請文を秀吉に提出して一応の事態は収拾された(『言経』)」と。
 「真田丸」で描かれていたように三成の諫言通りにはいかなかったことがわかりますが、落首事件の処分の理不尽さは、三成も感じていたに違いありません。しかし、三成たちは秀吉の意向に従って、本願寺への介入を続けざるを得ませんでした。このことについて、福田氏の同書には、次のように記されています。
 「18日には寺内掟五ヵ条が石田と増田の連判で出され、勘気の牢人を抱えないこと、盗人・悪党は油断なく糾明を遂げること、町中に武士奉公人を抱えないこと、町中では誰の家来であっても町並に役儀を務めること、他所・他郷の町人・百姓はその所の給人・代官に支障がある場合は抱えないこと、と取り決められた。さらに19日には寺内の検地が石田と増田によって施行された(『言経』)」と。
 ここには、本願寺を豊臣政権の支配下に置こうという意図がうかがえますし、落首事件を口実にした可能性もあります。顕如上人(光佐)の本願寺も秀吉の強引とも云えるやり方に従い、その中で生き残る道を選び、この後、翌天正19年に秀吉によって京都に移転を命じられ、それが西本願寺につながります。
 平成25年11月に長浜市石田町で行われた三成祭の時の太田浩司氏の講演会「本願寺と石田三成」で、三成と本願寺の関係について論じられており、三成は顕如上人(光佐)の本願寺派と良好な関係にあったことが論じられていました。それに対して、三成は教如上人の東本願寺派は認めないという立場を取っていたと指摘されていました。この講演会の内容については、拙ブログ記事で触れたことがありますが、東本願寺が出来たのは家康の時代になってからであるものの、教如上人は信長の時代からタカ派であり、最後まで抵抗しましたし、秀吉の時代になってもその姿勢は変わりませんでした。それに対して、顕如上人はハト派であり、落首事件の経緯から見ても、秀吉は自分の意向に従った本願寺に対して、悪くは思わず、監視の目は持ちながらも保護政策を取ったのではないでしょうか。もっとも、落首事件をめぐる三成と本願寺との関係、その後、この事件が与えた影響については、きめ細かく見ていく必要があるでしょう。
 

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