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zoom RSS 石田三成の実像1614 大河ドラマ探訪363「真田丸」28 馬廻衆であったとの根拠 三成の描き方12

<<   作成日時 : 2016/05/03 15:20   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、信繁は豊臣方の人質ではなく、上杉景勝の初上洛に付いていき、秀吉に気に入られ、そのまま馬廻衆に取り立てられたという設定になっています。
 前にも拙ブログ記事で取り上げたように、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)では、信繁は人質ではなく、秀吉の直参衆だったと指摘されています。その根拠は、「大鋒院殿御事蹟稿」の記述であり、「文禄の役において信繁は、昌幸・信幸と同じく肥前名護屋に参陣している。その時の身分は、『馬廻(うままわり)』と記されている」と丸島氏の同書にあります。
 「真田丸」はこういうところから、信繁が天正14年の時点で馬廻衆に取り立てられたという設定にしたのでしょうが、取り立てられた時期については今後の検討課題だと云えます。
「真田丸」では、信繁は客観的な立場で豊臣政権の内情をいろいろ知るという役回りを与えられているようです。また大事な場面に主人公を絡ませるという大河ドラマの常套手段が用いられていますし、それは今後も踏襲されるのではないでしょうか。
 第17回では秀吉が上洛した家康のもとを訪れる際、家康と面識がある信繁に仲介役を頼むという描き方でした。翌日の大坂城での謁見の際、家康が臣下の礼を取り、秀吉の陣羽織を所望してほしいと秀吉は頼んでいました。家康が大坂城の謁見の際、秀吉の陣羽織を求めるという話は大河ドラマや小説でよく取り上げられますが、出典は「徳川実記」です。これは徳川家に都合よいように記された書物ですから、陣羽織の話が本当にあったのかどうかは疑ってかかる必要がありますが。
 昨日の拙ブログ記事でも取り上げたように、加藤清正・福島正則と三成の言い争いの場面に信繁が居合わせ、殴りかかろうという二人を信繁が止めていました。大谷吉継は三成側の立場に立って、両者の仲を取り持とうとしていましたが、この姿勢は今後も続くものだと思われます。
 清正・正則ら武断派と三成の対立が当初からあったという捉え方に私は疑問を持っており、後の武断派七将による石田三成襲撃事件(対象は三成だけではなく、奉行衆全体に対してでした)の直接の原因は慶長の役の際の処分問題であったと考えています。もっとも、正則は慶長の役では渡海していませんから、このあたりをどう考えたらよいか課題だと思っていますが。三成派とされる福原長尭が朝鮮に渡海した諸将らの後ろ向きな行動を秀吉に報告したため、処分を受けたのですが、その矛先は福原らを弁護した三成たち奉行衆に向けられます。この点について、矢部健太郎氏の「関白秀次の切腹」(角川書店)の中で、「『三成のもとで働いた者たちの発言』が、時間の経過とともに『三成の讒言』にされてしまうケースも、実は相当数あるように思われる」と指摘されています。
 このあたり「真田丸」ではどのように描かれるのでしょうか。
 

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