関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1636 大河ドラマ探訪376「真田丸」40 三成の描き方22 北条攻めをめぐって2

<<   作成日時 : 2016/05/31 16:50   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、三成は秀吉に命じられて北条攻めの準備を進めるものの、北条氏の上洛を促す書状をもう一度送ると言っていました。
  実際の北条の上洛問題は複雑な経過をたどりましたが、ドラマではそれが単純化されていました。
 秀吉及び家康に上洛を促された北条側は、北条氏規が上洛して、秀吉に対面します。天正16年8月22日のことです。このあたりのことは「真田丸」では描かれていませんでした。
 「真田丸」では、家康が北条氏政に会って、直接上洛を促していましたが、実際には天正16年5月21日に、氏政・氏直親子に宛てて起請文を送っています。その内容が、齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」(中公新書)に次のように記されています。
 「一、そちら御父子について、殿下の御前で悪く申し上げたり、邪(よこしま)な考えを構えて、北条家の分国をまったく望むようなことはない。
  一、今月中に、兄弟のうち誰かが、京都に御礼を申し上げるように。
  一、豊臣家への出仕に納得ができないならば、家康の娘を返すように」と。
 時系列から云えば、鶴松(お捨て)が誕生したのは天正17年5月27日のことですから、家康が北条氏にこのようなことを言ったのはその前のことになりますが、「真田丸」では逆になっていました。
 こういう家康の要請もあって、北条氏規の上洛となりますが、齋藤氏の同書では、この上洛にあたって、巨額の資金がかかり、資金集めに腐心したことが記されています。
 この北条氏規の上洛に気をよくした秀吉は、北条氏政・氏直を赦免し、反北条派らの関東の諸領主にそのことを記した朱印状を記しています。
 翌年3月11日に石田三成が宇都宮国綱に宛てた書状の内容が、齋藤氏の同書に記されています。国綱が上洛すると連絡してきたのに対する返書であり、三成はその返書の中で「北条領国が豊臣政権に包摂されたことを明確に表現し」、「北条氏政・氏直゜による私戦はありえ」ず、「宇都宮領の保持のためにも早期の上洛が重要であると勧告し」、「宇都宮国綱がもっとも嫌う人物であった北条氏照の名前を掲げ、上洛を求め」、「進上物は不要を書き添えて、負担の軽減を記している」などと述べています。
 氏規の上洛によって、反北条派であり秀吉が支援していた佐竹義重や宇都宮国綱らの立場が微妙に変化したことが、齋藤氏の同書で指摘されています。
 

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