関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大阪探訪137 黒田藩蔵屋敷長屋門 大河ドラマ探訪364「軍師官兵衛」109  左手の逸話の出典不明

<<   作成日時 : 2016/05/04 13:54   >>

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写真は天王寺公園内にある黒田藩蔵屋敷長屋門を4月29日に撮ったものです。もとは中之島にありましたが、昭和8年にここに移築されました。
  写真を撮った背に大阪市立美術館があり、写真の左側に慶沢園があります。長屋門の向こう(南側)に芝生広場があり、レストランなども設けられており、昔の天王寺公園の雰囲気とは大分違っていますが、長屋門から大阪市立美術館、茶臼山へと続くエリアは私が子供の頃とほとんど変わっていません。美術館の前には階段があり、そこを下りると動物園になっていますが、そのあたりの雰囲気も昔のままです。
 私の生まれ育った長屋はすでに取り壊され、新たな住宅が建っており、周りの雰囲気も大分変わっていますが、こういう昔ながらの風景が残っている場所に来ると、心が落ち着きますし懐かしさに駆られます。天王寺界隈は四天王寺、安居神社、天王寺七坂など当時の雰囲気がそのまま残っているところが少なくありません。
 さて、目下、福田千鶴氏の「後藤又兵衛」(中公新書)を読んでいますが、その中に、黒田官兵衛が、関ヶ原の戦いの後に、息子の長政に言ったという逸話について言及されています。すなわち、関ヶ原の戦いが終わった直後に長政が家康の陣所を訪ねた時に、家康は自分の手を取って感謝の意を表してくれたという話を黒田長政が官兵衛に自慢げに言うと、黒田官兵衛は「おまえの左手は何をしていた」(なぜその手で家康を刺さなかったのだという意)と訊く有名な逸話です。大河ドラマ「軍師官兵衛」でも、その逸話が使われていました。私もいささか出来過ぎた話だと思いながらも、編纂物などの二次史料に記されている話だと思っていました。しかし、福田氏の同書では、その話の出典がわからないということが指摘されています。
 すなわち、「そもそもは金子堅太郎『黒田如水伝』に出てくる話だが、金子はまったく出典を示していない。『古郷物語』を出典とする著作もあるが、複数の『古郷物語』の写本を確認しても、そのような記述はない。関連する話としては、もう少し長政が関ヶ原合戦を延ばしていればと、長政の思慮の浅さを悔やみながら如水が兵を収めた、という話があるだけである」と。
「軍師官兵衛」でも描かれていたように、関ヶ原の戦いの際は、黒田官兵衛は九州で次々と西軍の城を落としていきますが、これについて、白峰旬氏の「黒田官兵衛と関ヶ原合戦」(小和田哲男氏監修の「黒田官兵衛」【宮帯出版社】所収) では、関ヶ原の戦い後の10月4日付の吉川広家宛の黒田官兵衛書状が取り上げられ、次のように解説されています。
 「このことからは、黒田官兵衛は、石田・毛利連合軍と家康主導軍の軍事抗争がもっと長期化すると予想していたことがわかり、家康が早くも勝利して残念である、と述べているのは黒田官兵衛の本心なのであろう」と。
 有名な上記の逸話は、金子堅太郎が官兵衛の心中を慮って、こしえられたフィクションかもしれません。
 
 


 
 

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