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zoom RSS 石田三成の実像1616 大河ドラマ探訪366「真田丸」30 昌幸の上洛の時期 三成の描き方13

<<   作成日時 : 2016/05/10 22:03   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第18回「上洛」は文字通り、真田昌幸の上洛を中心として描かれていました。昌幸が上洛したのは天正15年2月のこととしていました。
 昌幸の上洛の時期については、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の年表には、「天正15年(1587)3月 昌幸、上洛して豊臣秀吉に臣従し、『豊臣大名』となる」と記されています。
 一方、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、天正15年の項に、「3月1日九州に向かい大坂発」と記されています。中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井氏編の同書所収)にも、「3月1日秀吉は島津氏を討つため大坂を発向。三成もこれに従ったと考えられる」と記されています。
 こういうことからすれぱ、昌幸が秀吉に謁見したのは、「真田丸」で描かれていたように、秀吉が九州攻めに向かう前の2月だったと考えるのが妥当だと云えます。
 「真田丸」では描かれていませんでしたが、秀吉に謁見する際、徳川家臣の酒井忠次が同席したことが、丸島氏の同書に記されており、このことは、平山優氏の「真田三代」(PHP新書)にも記されています。平山氏の同書には、「真田昌幸は、小笠原貞慶とともに上洛し」、「秀吉に臣従を認められた昌幸は、3月18日、小笠原貞慶とともに、酒井忠次に伴われて駿府城に入り、家康に出仕した。ここに正式に真田昌幸は、領土を安堵され、大名として認定されることとなったのである」などと記されています。
 「真田丸」で、昌幸は家康の与力大名になるよう命じられていましたが、平山氏の同書には、「すでに秀吉は、上洛した上杉景勝との間で真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌は家康の支配下に置くことを決めており、今回の上洛でそれが昌幸本人に正式に命じられたのである」と指摘されています。
 景勝の上洛は、「真田丸」でも描かれていたように、前年の6月のことですが、その時点で、昌幸が家康の支配下に入ることは決められていたわけです。
 「真田丸」では、昌幸は最初秀吉に会えず、秀次が姿を見せ、同席した三成が昌幸に真田の領土を安堵し、これからは関白殿下の臣下として尽くすようにと言い渡していました。三成は真田の献上品にもけちをつけ、信幸が挨拶しようとした時も、三成は「時が惜しい」と遮っていました。その一方、大谷吉継は昌幸のもとに来て丁寧な挨拶をしていました。このあたりはドラマ的な脚色ですが、ぞんざいな対応をする三成と心配りを忘れない吉継の対比が強調されている印象を受けます。
 

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