関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1637 今福匡氏「毛利勝永」7 毛利輝元が上洛した時に勝永11歳で接待

<<   作成日時 : 2016/06/01 09:51   >>

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 今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)には、毛利勝永が政治的な舞台に登場したのは、毛利輝元が天正16年(1588)に上洛した時だと記されています。その時、勝永は11歳でした。三成は29歳ですから、18歳年上になります。
 輝元が大坂に着いたのは7月19日ですが、「出迎えの使者として、毛利吉成は、黒田官兵衛、毛利兵吉、森勘八とともに輝元の御座船を見舞っている(『輝元公上洛日記』)。翌20日巳の刻(午前10時頃)、吉成は輝元を大坂の自邸に招待している」と記されています。この時の輝元をもてなすための能興行の際、勝永は太鼓を披露していることが「上洛日記」に記載されています。
 さらに25日には「輝元の(諸大名への)挨拶回りに、黒田官兵衛とともに吉成が案内役として同行した」「8月4日、輝元が飛鳥井雅春邸へ赴いた際には、ふたたび吉成も相伴に与(あずか)」り、「11歳の勝永も相伴していた」とあります。
 今福氏の同書には、「輝元公上洛日記」に描かれている輝元が飛鳥井邸を訪問した際の席次が掲載されていますが、前関白、左大臣を筆頭に公家衆が居並び、末座の六名の一人に勝永(毛利壱岐守御息)の名があります。
 吉成について、今福氏の同書には、「豊前小倉入部後、長崎の代官にも就任しているが、こうした政治的地位の裏付けとして、茶の湯、能興行、秀吉政権での指南役など、相応の能力を発揮していた」と記されています。
 また勝永については、今福氏の同書には、「中国の大大名毛利輝元の接待役、能興行での太鼓披露など、11歳の少年には華々しい舞台であるといえよう。加えて、在京中の輝元と公卿衆の会見への相伴も特筆される。こうした特別待遇には、当然ながら秀吉が勝永に目をかけているという背景があったと考えられ、その期待に応えるべく吉成は、息子に教育をほどこしていたのであろう」と記されています。
 輝元の上洛ですが、中野等氏「毛利輝元の居所と行動(慶長5年9月14日以前)」(『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、7月「22日に入洛。妙顕寺に宿す。24日に聚楽訪問、25日参内して従四位下侍従に叙任。28日再び参内、参議に任官する。8月に入ると豊臣氏一族と交歓し、洛中の諸所を訪ねる」などと記されています。
 毛利輝元はこの後、豊臣政権の大老として活躍し、関ヶ原の戦いでは、三成の呼びかけに応じ西軍の総大将になりましたが、すでにその前年の三成襲撃事件の際、輝元は三成ら奉行衆と組んで、彼らを襲おうとした武断派たちと対抗しようとしています。それは失敗に終わりましたが、その巻き返しをはかったのが関ヶ原の戦いでした。

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