関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1646 大河ドラマ探訪379「真田丸」43 三成の描き方25 沼田裁定をめぐって 

<<   作成日時 : 2016/06/10 10:51   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第22回「裁定」は文字通り、「沼田裁定」を中心として展開し、秀吉が北条攻めを決めるというところまでが描かれていました。「沼田裁定」は、時代劇版の裁判が繰り広げられるという形になっており、三成が裁判の進行役を務めていました。北条氏を代表して板部岡江雪斎、真田氏の代表として真田信繁、徳川氏の代表として本多正信が当事者として裁判に参加し、三成が沼田領がこれまで誰に属していたか、その歴史的経緯を片桐且元に図を用意させて説明させ、当事者に振って、意見を陳述させていました。このあたりは、いかにも現代的な描き方であり、ドラマティックな展開にしていました。
 「真田丸」では、裁判が真田氏に有利に運びかけたところで、三成が昌幸・信繁のところに来て、沼田を北条に譲ってほしいと頭を下げて頼んでいました。昌幸はそれをやむなく承知していましたが、名胡桃は先祖の墓があるので残してほしいと嘘をつき、三成はそれを認めていました。その結果、北条には沼田の三分の二を、真田氏には三分の一が与えられるという秀吉の裁定が下りますが、それは史実通りです。しかし、その裁定に至る経緯をこういう形で描いているのは脚本家の創作です。
 北条氏が名胡桃城を奪って、秀吉が北条攻めをしようとした時も、三成は今一度書状を送って、上洛を促しましょうと言っていました。「真田丸」では、三成は北条攻めをあくまで避けようという設定がされています。真田昌幸に頭を下げたのも、戦いを避けようという思いから出たものという描き方でした。
 秀吉は名胡桃城を奪った北条氏(氏政)に対して、天正17年11月24日に書状を出しますが、その第2条で沼田裁定のことが記されています。その内容について、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)の中で次のように訳されています。
 「北条氏規と対面した際、領域の境目等について家臣を差すように命じたところ、江雪斎を上らせてきた。彼に『家康と北条との間で国切りの約束はどのようになっているか』と尋ねたところ、『甲斐・信濃は家康が、上野は北条が取ると決まった』と答えた。秀吉は、上野沼田について北条が自力で取ったものでもないにもかかわらず、家康が約束に相違したように主張し、北条が秀吉に出仕することを迷惑のように言っていると考え、『上野の内で真田が持ってきた知行の三分の二は沼田城に付けて北条に与えよう。三分の一は真田に与え、その中にある城は真田が抱えるように』と定めた。そして、真田が北条に渡した三分の二の替地は家康より真田に渡すと決め、北条が出仕するとの一札を出したので、御上使を派遣して沼田を与えることにして、江雪斎を返した」と。
 もっとも、この書状は真田家に残っており、北条宛のものがなぜ真田家に残るかという疑問も、笹井氏の同書で指摘されています。
 

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