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zoom RSS 三成の実像1651 太田氏「『真田丸』を3倍楽しむ講座」2「真田家と近江人脈相関図」「こう」の重要性

<<   作成日時 : 2016/06/15 21:25   >>

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 太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第1回真田家と豊臣家の人びと」では、ドラマと史実の違いがテーマになっていましたが、2時間の時間があっという間にすぎるほど、興味深い内容でした。
 今回は1月から5月までの放送内容に関する話が主でした。
 まず真田信幸の夫人だった「こう」が離縁され、信幸は本多忠勝の娘の小松姫を妻に迎えるものの、侍女として残る不自然さについて言及されていました。当時は一夫多妻制の時代ですから、「こう」を離縁せず、小松姫を妻に迎えても問題はなく、ましてや侍女として残るというのは聞いたことがないとおっしゃっていました。実際、「こう」はこの後も信幸の妻としてとどまっていると指摘されています。
 さらに「真田丸」では触れられていませんでしたが、「こう」という女性の真田家における重要性について、「真田家と近江人脈相関図」をもとに説明されていました。この相関図のパネルは長浜の「MEET三成展」で展示されていましたし、太田氏などが作成したものです。
 「こう」は、相関図では「清音院殿」と云い、真田幸隆の嫡男である信綱の娘です。昌幸は幸隆の三男でしたが、信綱と次男の昌輝が長篠の戦いで戦死したため、昌幸が真田家の家督を継ぎました。相関図の「清音院殿」の説明には、「昌幸・信幸が真田本家を名乗るには嫡男信綱の娘をめとることが必要であった」と記されています。そういうことからすれば、信幸が「こう」を離縁したり、侍女にしたりすることはありえないわけです。
 この相関図は、向かって左側に信幸、右側に信繁が配され、左側に徳川家方、右側に豊臣方の人物が描かれ、その対立関係が一目でわかるように工夫されています。豊臣方の家臣の中に三成や大谷吉継、片桐且元、速水守久ら近江出身の者の名が記されています。むろん、近江出身の淀殿の名も掲載されています。
 もっとも、相関図には、信繁の妻の名として、秀次の娘の名は記されていないことが、太田氏によって述べられていますし、「真田丸」でも登場してくるかどうかわかりません。そもそも、秀次事件がどのように描かれるか、大いに興味・関心があります。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、三成が秀次の娘の命を救っていることを記しました。すなわち、「秀次と妻の一の台(菊亭晴季の娘)の間に生まれた娘が、三成夫人や真田昌幸夫人によって庇護され、後に真田信繁(幸村)の側室となっている」と。もっとも、この時点では、三成夫人と昌幸夫人は姉妹であるという従来の説に従って記しましたから、秀次の娘が信繁の側室となった経緯については検討し直す余地がありますが、三成がこの婚姻にかかわっていたことは確かだと思われます。

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