関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1652 太田氏「『真田丸』を3倍楽しむ講座」3景勝を出迎えた場所・落首事件をめぐって

<<   作成日時 : 2016/06/16 10:45   >>

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12日に長浜で行われた太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座」で、「真田丸」のオープニング映像の城は備中松山城をモデルにしたものだと明かされていました。山城であること、天守が二層であることが選ばれた理由だと述べられていました。
 ドラマと史実の違いをテーマにした、具体的な話としては八つ取り上げられていましたが、三成に関連したことから云えば、「真田丸」では上杉家の上洛を三成が迎えたのは倶利伽羅峠付近の寺だとして描かれていましたが、実際は森本であり、倶利伽羅峠とは10キロも離れていると指摘されていました。三成が景勝主従を森本で出迎えていることは、以前に拙ブログ記事でも触れたように、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)に記されています。太田氏の講座ではその典拠となる「天正14年上洛日帳」が、史料として取り上げられていましたが、その中に「関白様之御使石田治部少輔も、森本近辺迄御出候、互ニ有御下馬御参会(以下略)」などという記述があります。
 講座では、三成はすでに天正11年から上杉家と接触していたことが述べられ、天正11年2月7日付の西雲寺宛の増田長盛、木村清久、石田三成の三名連署状案が史料として取り上げられていました。このことは、太田氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)の中でも記されていますし、拙ブログ記事でも一度ならず取り上げています。
 面白かったのは、太田氏が倶利伽羅峠付近の寺での出会いはおかしいということを「真田丸」の制作統括の屋敷陽太郎氏にメールで指摘したものの、返事は来なかったと述べられていたことでした。これぐらいはドラマとして許容範囲だと考えたからか、その種のことにいちいち答えている余裕はないと判断されたからかはわかりませんが。
 また鶴松を揶揄する聚楽第落首事件は事実なのかという点についても講座では取り上げられていましたが、拙ブログ記事でも紹介したように、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)の記述が資料として取り上げられていました。史料としては「多聞院日記」の天正17年2月の記述が取り上げられ、その中に「番所ノ白壁ニ上(ハ)関白ヨリ下(ハ)各々近事恣ニ楽書沙汰」などとあり、落首は秀吉だけを狙ったものではなく、広範囲の人々を対象としていたと指摘されていました。落首の内容については、以前に拙ブログ記事で福田氏の同書の記述を引用して取り上げたことがあり、今回の講座でも福田氏の同書のその部分は資料として掲載され、講座の中でも言及されていました。ただし、その落首の内容は「武功夜話」にしか記載がないことも指摘されていましたが、「武功夜話」のその部分の記述も史料として載っていました。また「武功夜話」には「落首のはり紙」とあり、福田氏の同書にもそう記されていますが、「真田丸」では「貼り紙」ではなかったということにも言及されていました。

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