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zoom RSS 石田三成の実像1653 太田氏「『真田丸』を3倍楽しむ講座」4 吉継がいつも大坂城の御文庫にいるわけ

<<   作成日時 : 2016/06/17 18:01   >>

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 12日に長浜で行われた太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座」で触れられていた話題の一つに、「大谷吉継は、なぜいつも大坂城の御文庫にいるのか?」ということが取り上げられていました。もっとも、これは5月までの放送分に限られた話題であり、先日放送された第23回「攻略」では、吉継が秀吉に三成を忍城攻めに派遣するよう要請していました(この回の三成の描き方については後述します)。
 この問いに対する答えを聞いて、会場に笑いが起こりました。その答えとは、「吉継を演じる片岡愛之助さんが忙しくて、たくさんの出演者と絡む場面が撮れないから」ということでした。同じセットの場面は、時系列に関係なくまとめて撮るということも指摘され、三成や信繁と絡む場面は「御文庫」になってしまうというわけです。むろん、三成の屋敷の場面も出てきますが、最小限の人々の絡みだけであり、吉継が秀吉のそばにいたり評定の場にいたりすることはほとんどないのは、他の出演者との調整が難しいからだと述べられていました。
 そういうことを明らかにした上で、実際の吉継は三成と共に民政や軍団統率に優れた奉行であり、三成と同じく秀吉のそばにいる武将だと述べられていました。それを示す史料として、講座では多賀大社宛の吉継書状が二通取り上げられ、説明が加えられていました。二通とも敦賀市立博物館発行の図録「大谷吉継 人とことば」に掲載されており、いずれも豊臣秀吉朱印状の添状です。
 一通は天正12年(1584)と推定される9月11日付の書状で、図録には「陣中に多賀大社から届けられた護符・香水など戦勝祈願の験と見舞いの品に対する秀吉の礼状(朱印状)に添えられた吉継の書状(添状)。秀吉の謝意を重ねて伝えるとともに、自身に届けられた銭への礼を記している」などと解説されています。
 もう1通は年不詳の2月3日付のものですが、天正14年以降文禄2年頃と推定されています。やはり図録には、「年始の祝儀に多賀大社から送られた護符、香水と祝儀品への秀吉の礼状(朱印状)と、これに添えられた吉継の書状(添状)。秀吉の謝意を伝えるとともに、自身に届けられた銭への礼を記している」などと解説されています。
 三成もまた秀吉朱印状の添状を数多く書いていますが、添状を記すのは、「取次」の役目としての一つでした。三成も吉継も若い時から奉行として同じような仕事に従事してきましたし、九州攻めなどでは兵站奉行として活躍しています。忍城攻めでも同一行動を取っていますし、文禄の役でも、二人は増田長盛と共に奉行として秀吉の代わりに渡海しています。積極的に和平交渉に関わっていたのも同じです。もっとも、秀吉の死後は吉継は家康寄りの立場になっていますが、三成も奉行職に解かれて佐和山城に隠居してからは、前田利長によるとされる家康暗殺未遂事件の際も、家康の要請に応じて出兵していますから、豊臣政権を家康に委ねようとする時期(あくまで家康が豊臣政権を守ってくれると思ってのことですが)は三成にも吉継にもあったのではないかと思われます。

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