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zoom RSS 石田三成の実像1654 大河ドラマ探訪380「真田丸」44 三成の描き方26 忍城攻めの史実との違い

<<   作成日時 : 2016/06/19 15:45   >>

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大河ドラマ「真田丸」第23回「攻略」で、三成が忍城攻めをする場面が描かれていましたが、その経緯や時系列が史実とは違っていました。
 三成が秀吉のもとを離れて館林城に向かい、館林城を開城させたのは5月30日のことですが、「真田丸」では、この時点でまだ三成は秀吉のもとにおり、館林城攻めは全く描かれていませんでした。
 三成は6月4日に館林を発って忍城へ向かい、5日以降に忍城を囲んでいます(中野等氏「石田三成の居所と行動」藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収・中井俊一郎氏「石田三成からの手紙」【サンライズ出版】など)。「真田丸」では、真田信幸が昌幸の意向を受けて忍城を攻めていましたが、真田氏が忍城攻めに加わるのはもっと後のことです。
 「真田丸」では、6月9日に伊達政宗が秀吉のもとに出仕し(これは事実です)、その後、吉継が秀吉に三成を攻略に手こずっている忍城攻めに派遣するよう要請し、秀吉も認めていました。
 「真田丸」では、吉継は6月20日の段階で小田原の本陣にいましたが、実際には、吉継も当初から三成に同行していますし、佐竹義宣、多賀谷重経、宇都宮国綱ら三万人も一緒でした。先述したように、後に真田昌幸も加わっています(中井俊一郎氏の同書)。
 「真田丸」では6月12日、忍城に着いた三成が、忍城攻めに手こずる上杉景勝や真田昌幸を叱咤し、鉢形を攻めるように言っていましたが、ここにも権柄づくな三成の姿が強調されている気がしました。ここのあたりも作られた三成のイメージに基づいたドラマが展開している印象を持ちました。上杉景勝らが忍城攻めに向かうのは、7月5日のことですから、こういう場面があるはずがありません。
 「真田丸」では、忍城に派遣される前の三成は見通しが狂ったりいくさの新しい算段を考えたりすると、ストレスで腹を痛める場面が出てきましたが、関ヶ原の戦いの伏線になっているのでしょう。
 忍城を水攻めにすることについては、映画「のぼうの城」で描かれていたのとは違って、三成の考えたことではなく、「秀吉の命令」だと言っていました。これは中井俊一郎氏の見解が世間に認知されてきた証拠だと嬉しく感じました。 
 もっとも、「真田丸」では三成が堤を一日で作れると上杉景勝や真田昌幸の前で豪語していましたが、堤は新しく作ったもの、既存の堤を補修したものを含めて28キロあったとする大正期の清水雪翁儀氏の見解があり(中井氏の同書で紹介)、とても1日で出来上がるようなものではありませんでした。実際には、三成もそのことはよく承知していたはずで、秀吉の命令とはいえ、この工事がいかに無茶なものであるということはよくわかっていたに違いありません。現場の地形が水攻めに向いていず、忍城は水攻めでは落ちないことを見越していたというのは中井氏の見解ですが、「真田丸」では、忍城は4日で落とせると三成は息巻いていました。ここのあたりも、三成の描き方に不満を覚えるところです。

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