関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1638 今福匡氏「毛利勝永」8 文禄の役の際の動向・漢城で吉成と三成の接点

<<   作成日時 : 2016/06/02 20:37   >>

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 今福匡氏「毛利勝永」(宮帯出版社)には、文禄の役の際の毛利吉成・勝永の動向についても記されています。
 吉成は渡海組の四番手となっており、そのうち島津義弘は一万人、吉成、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊の兵合わせて四千人から成り立っていました。なお、三成は奉行として名があり、名護屋に配置され、舟奉行としての役目を果たしていました。
 吉成ら第四軍は4月17日に釜山に着き、黒田長政ら第三軍と合流し、陥落した首都漢城へ入り、会談の末、第四軍は朝鮮半島東部の江原道経略が任せられました。
 今福氏の同書には、黒田長政・吉成宛の秀吉書状が二通取り上げられています、一通は5月13日付のもので、「占領した敵城に人数を入れ置くことや、秀吉自身の渡海のために船を差し戻すよう指示している」ことなどが記されています。
 もう一通は6月3日付で、「兵糧請取に関する指示を下し、高麗から大明国境までの『つなぎの城々普請』を命じている」という内容です。
 前にも拙ブログ記事で取り上げたことですが、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、「豊臣秀吉の朝鮮国漢城までの経路と『御座所』普請(計画)」の図が掲載されています。
 もっとも、この頃、秀吉は渡海を延期し、秀吉に代わって三成は大谷吉継、増田長盛と共に6月6日を名護屋を出船しています(中野等氏「石田三成の居所と行動」所収)。
 名護屋城博物館発行の同図録には、文禄2年2月27日付の「朝鮮在陣諸将連署誓紙」が掲載されていますが、17名の諸将の中に、三成・吉継・長盛と並んで毛利吉成の名(「毛利壱岐守」と署名)も記されています。三成と吉成の接点を示す意味でも貴重な史料です。
 この誓紙の解説文には次のように記されています。
 「平壌を奪還された後、碧蹄館・幸州山城等の戦闘を経て明国・朝鮮国軍の圧力が強まる中、漢城へ集結した17名の朝鮮在陣諸将が、秀吉への状況報告と朝鮮国への『御仕置』=経略についての会議にあたって、自己の利益を捨て公儀のために意見する事、多数決に従う事、会議の結果に反して自分の主張をしない事の誓約書である。苦境に立たされた日本軍が一致団結の方向性を示すものである反面、朝鮮在陣諸将間における確執の一端が窺われる史料とも推定される」と。
 この後、三成・吉継・長盛は小西行長と共に和平交渉への道を探っていきます。 

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