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zoom RSS 石田三成の実像1656 林昭男氏の講演会「石田三成と佐和山城」2 発掘調査による本丸の破城ぶり

<<   作成日時 : 2016/06/21 12:20   >>

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11日に滋賀県立安土城考古博物館で行われた林昭男氏の「石田三成と佐和山城」は、前述したように、佐和山城跡の発掘調査の成果の報告が主でしたが、その前に佐和山城の立地、歴史、縄張りと構造について述べられていました。この点に関しては、以前の林氏の報告でも触れられていました。
 3月26日に彦根で「三成フェス」が行われ、私もそれに参加しました。実はその次の日に佐和山城の本丸の発掘調査の現地説明会がありましたが、それには残念ながら参加できませんでした。しかし、今回の林氏の講演会で、その調査結果を知ることができました。
 破城の具体的な状況として、まず石垣が崩され、次に本丸の曲輪面が削られ、その削られた部分の土砂を使って石垣の跡地が埋められていたことが確認されました。講演会で配布された資料に、「伝本丸における破城の模式図」が掲載されていましたが、本来の曲輪面がなくなり、破城後の地表面がぐっと下がった状況がその図でよくわかりました。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中に、井伊家が享保12年(1727)に佐和山城や周辺の聞き取り調査を行った記録である「古城御山往昔咄聞集書」の内容が紹介されていますが、本丸について次のように記されています。
 「本丸の天守も今より高く、御拝領当時(井伊直政入封当時)に切り落とされたのが7間(約13m)とも9間(約16m)ともいわれている」と。
 本丸が実際に切り落とされていることが、今回の発掘調査で確認されたわけです。
 また築石は残っていないこと、本丸の北東面の石垣は上下二段構造になっていること、出土した瓦は西の丸下段曲輪から出た小型のものも含むが、同時期の一般的な大きさのものが多いこと、桐葉文軒瓦が出土していること、トレンチは二か所掘られており(その位置や写真も史料には掲載されています)が、3mも土砂が埋められていること、トレンチには裏込め石が張り付いており、また落城の痕跡と思われる炭なども混じっていたことなどが述べられていました。その史料には、何か所か残っている石垣の位置や写真も掲載されています。
 また三成の屋敷があったとされる、佐和山の西麓にある「モチノ木谷」の試掘調査の結果についても触れられ、遺構や堀を確認したと述べられていましたが、東麓で発見されている侍屋敷跡などもまた発見されていず、その発見が待たれます。佐和山の西麓には三成の屋敷だけでなく、嶋左近の屋敷などもあったとされています。

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